「掏摸」 中村文則 著

盗みという背徳行為を繰り返し、あえて光に背を向け、下へ下へと下ることを選んだ主人公。彼はどん底の闇の中で何を見出したのか。


幼い頃は生活のためだった。
それがやがて、人のものを奪うこと自体が目的になり、持って生まれた指の形状と才能が助けとなり、今では盗むことが習慣にまでになってしまった。
彼は何かに憑かれたように、他人からものを盗み続ける。
無意識に盗んだものを懐から発見して本人が驚くことすらあるほど、息をするように彼は盗む。
主人公は、天才的な掏摸師だ。


世界は硬く、強固だった。あらゆる時間はあらゆるものを固定しながら、しかるべき速度で流れ、僕の背中を押しあい、僕を少しずつどこかに移動させていくように思えた。だが、他人の所有物に手を伸ばす時、その緊張の中で、自分が自由になれるような気がした。自分の周囲を流れるあらゆるものから、強固な世界から、自分が少しだけ外れることができるような、そんな感覚を抱いた。


主人公はその才能ゆえに、ある男に見出される。
悪そのもののような男。
男は、人の運命を、世の趨勢をその手でコントロールできると豪語する。
主人公はつかのま関わりを持ってしまった母子を人質に取られ、男の命令に逆らうことができない。
男の強烈な存在感や、主人公の友や大勢の人々を破滅させたその力は、人の運命を握っているという男の言葉を裏付ける。
男はまるで神のようだ。


あとがきを読むと、作者はこの本の執筆にあたり旧約聖書を読んだのだという。

「汝、盗むなかれ」

主人公は、全編に渡って他人の財布を、書類を、携帯を盗むという背徳行為を繰り返す。
神がモーセに与えた、人間が守るべき戒律を破り続ける。



僕は、あの塔が見えなくなるまで、何かを盗もうと思った。低く低く、影に影に。ものを盗めば盗むほど、自分はあの塔から遠ざかるのだと思った。



人はいろいろなやり方で神を見出そうとする。
いろいろな場所に、いろいろな人との出会いに、いろいろな徴(しるし)に神を見出そうとする。
しかし、主人公は逆に、神に背を向ける。
神を遠ざけるために、他人からものを盗むことで、光を避け、あえて下へ下へと下ろうとする。



だが、彼は絶望の中で本当は神を探していたのではないのか。
そしてついには、他人とは違う道、下へ下へと下る道の果てに、神を見出したのではないか。
それが証拠に、死の運命から彼を救う唯一の方法は、下へ下へと下った末に彼が習慣になるまで徹底的に身につけた「掏摸」という技術、そのものにこそあったのだから。
何という皮肉な話。


そして、作者は最後に一枚のコインに主人公の行く末を託し、主人公のその後の運命を読者の想像力に委ねようとする。
それはまるで、自らが作品の神となることを否定し、読者の中に神を見出そうとしているようだ。
この作者の態度もまた、この作品の主人公と同じく、否定することで初めて得られる何かを探しているように思われるのだ。

掏摸(スリ) (河出文庫)

掏摸(スリ) (河出文庫)