「弱くても勝てます 開成高校野球部のセオリー」 高橋秀実 著

毎年東京大学に200人近くが進学するという超進学校硬式野球部。グラウンドでの練習は週1回3時間のみ(雨天中止)という彼らが、強豪校に挑む。その独自のセオリーとは。




最近、各種スポーツ関連の部活動における体罰の問題が巷間で取りざたされている。
確かに、根性論・精神論と結びつきやすいスポーツと、直接的で(反射的反応としての)即効性のある体罰は、親和性が高いのかも知れない。


体罰はいけないものなのか、いけないとしたら何がいけないのだろう。
ネット上の議論を見ていると、体罰を全面的に否定するものが大半であるが、中には「必要悪」であるとか「自分にとっては良い指導だった」という主張すらもあって、その答えを探すのは私の中で棚上げになっていた。


さて、本書のテーマも、やはりスポーツ、それも王道である高校野球だ。
毎年、東京大学に200人近くが合格するという開成高等学校
その開成高校硬式野球部がこの本の舞台だ。
進学校である開成高校、1つしかない運動部用のグラウンドでの彼らの練習時間は、他の部活との兼ね合いで週に1回、それも3時間しかないという。
ところが、その悪条件の中、彼らは平成17年の東東京予選大会でベスト16入りを果たすのである。
この(失礼ながら)意外な強さは、もしかしたら頭脳プレーとか天才的な作戦によるものかと思ったのだけれど、残念ながらそうでもない。


東京大学出身の監督から指示される作戦は、エラーも良し、三振も良し、一番打てるバッターを打順一番から並べ、ドサクサまぎれに取れる時に取れるだけ点を取るというもの。
彼らは、この従来のセオリーをまるで無視した独自のセオリーで、毎日練習漬けで将来はプロ野球を目指そうかという選手たちがいる強豪校に惜敗したりするのだ。
「かけた時間と努力は裏切らない」なんてスローガンで野球をやっている人にしてみると、腹立たしいような気もするが、一体彼らの強さの秘密はなんなのだろう。


開成高校野球部の選手たちは考える。
時には考えすぎです!と言いたくなるほど、彼らは考える。
なぜ自分は打てないのか、なぜ自分はエラーをするのか、なぜ開成高校は勝てないのか、なぜ。
考えて、考えて、それを言語化し、消化しようとする。
著者のインタビューに、自分にも人にも分かるように、とことん説明しようとする。
それは選手ばかりではなく、監督もまたそうなのである。


外野に赤いコーンを置きっ放しにしているのを見ると、「それをどかせ!」と言うのではなく、「そこにコーンを置いたヤツはコーンを置くことの主旨を理解してない!」と叫ぶ。出塁してぼんやりしている選手には「ウチの野球には安心できる場面などない!」。守備で球を手にしてあたふたしたりすると、「人間としての基本的な動き方ができていない!」「そんなことは起こりえない!」客観的に正確に怒る。怒鳴ってはいるが命じているわけではなく、察するに生徒たちの自主性を損なわずに、客観性で追い詰めるのだ。


時にはその真面目さが滑稽にすら思え、電車の中でふきだしそうになって困るぐらいだったのだが、ふと思った。
これこそは、体罰の対極にある姿勢ではないだろうか。
カッとして、そして殴る。
感情を行為に直結させるのは実に簡単で、快感ですらあるかも知れない。
だけど、殴りたくなる気持ち、怒鳴りたくなる気持ちをいったん抑えて、なぜという疑問に繋ぎ、他人に説明しようとすること、説明ができると信じること、分かってもらえると信じること。
これはとてもハードルが高い。


ふいに仕事場である先輩に言われた言葉を思い出した。

「仕事は生き方なの」

それは同僚たちがお互いにお互いの仕事の進め方について批判しあっていた時。
皆、仕事に関してはベテランで、そのやり方については一家言ある者ばかりだものだから、ついつい他人のやり方に口出ししたくなる。
そんな様子を見ていた1人の先輩の口から出てきた言葉だ。


先輩は詳しい意味を語ることはなかったが、その言葉は私の腑に落ちた。
生き方が多様であるように、人の数だけ仕事のやり方がある。
そういう意味だと勝手に解釈をした。
そして、仕事はその人の生き方の反映だからこそ、恥じない仕事をしなきゃいけない、そう覚悟し、そして、仕事が楽しくなった。


この本を読んで、考えた。
野球もまた、生き方なのだ。
野球は勝負なのだから、勝利を唯一の目的にするのはいいのだけれど、そこに至る道程は多様であって良い。
いや、多様であるべきなのだ。
だって、人の生き方は多様で、自分以外の誰に強いられるものではないはずだから。


分かった。
体罰がなぜいけないのか、の答えはそこにあったのだ。


「弱くても勝てます」―開成高校野球部のセオリー

「弱くても勝てます」―開成高校野球部のセオリー