「オリーヴ・キタリッジの生活」 エリザベス・ストラウト 著

失ったものを人と一緒に数え上げる時、失くしたものを嘆き合いながら、私たちは優しさを互いに交換できる。私たちは、川の流れの中で、何かを失いながら、少しずつ優しさを学ぶのかも知れない。



旅の始め、私は何も持たずに出発した。
今はたくさんのものを抱え旅路を行く。
だけど、旅は復路に。
そしていつしか、私は持っていたたくさんのものを少しずつ失いつつある。


以前は"持っているもの"が話題の中心だった。
「まあ、お子さんが。私にも子どもがいるんですよ」
「そうなんです、仕事をしているんですよ」
「主人と一緒に海外旅行に行くんです」


ところが、いつ頃からか話題の中心は"なくしたもの”になってきた。
「そう、そう。最近老眼気味で…」
「子どもも家を出まして…」
「階段を登るのも息切れがして…」


これこそが中高年の始まりなんだろう。


本書は13篇の短編からなり、ほぼ全ての作品が中高年の始まりからその終末にかけての話が中心となる。


物語の舞台はアメリカ北東部メイン州の架空の町クロズビー。
題名の通り、主人公はこの海の見える小さな田舎町で暮らす教師、オリーヴ・キタリッジだ。
しかしそれぞれの短編で、彼女は時には主役を張るのだが、作品によってはカメオ出演で名前だけが出てきたりと、一概に主人公とは言いかねる扱いになっている。
結局、オリーヴという女性を軸にしつつ、著者が描きたかったのは、どこにでもありそうなありふれたこの町と、少し疲れた住民たちの生活なのだろう。


ありふれた、少し疲れた、などと言いつつ、決してこの本がつまらないと言っているのではない。
だって住民たちの身に降りかかる事件の一つ一つは、誰の身の上に降りかかってもおかしくないほど普遍的な出来事なのだから。
近所の噂話や、配偶者との争いや双方の浮気、子どもの反抗や離反、家族の病気や死。
まだ若いオリーヴの息子が母親に投げる無慈悲な言葉は、私がかつて両親にぶつけた言葉と重なってしまう。
町を超え、国を超えて、本当にどこにでもある話ばかり。
そしてオリーヴを始め、登場人物たちも胸が張り裂けそうな事件を経験しつつ、それぞれの流儀で、哀しみに負けまいと健気に抵抗する。
私たちの誰もがそうであるように。


著者の筆は救いのないままに、彼らと彼らの事件を描き続ける。
必ずしも彼らの努力に、救いが待っているわけではなく、結末に幸せを約束しない。
唯一約束されていることは、時が経過して、すべては変化していくということだけ。


思えば、鴨長明さんも同じことを違う言葉で言っていた。


ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。



しかし、最終章の「川」で、74歳のオリーヴは、新しい出会いを選択し、思う。


どんな心臓も、いつかは止まる。だが、きょうはまだ”いつか”ではない。


そう、失ったものを嘆いても、淋しさに浸っても、時は無慈悲な川のように、決して止まらず、流れていく、いつか大海に流れ込むその時まで。
流れに逆らうことは出来ないけれど、私も心臓の止まる最期の時まで、誰かを何かを求めて生きて行きたい。


思い出してみると、持っているものを数え上げる時、どこか苦しかった。
相手の持っているものを自分の持っているもので足し算引き算して、安心したり不安になったりする、そんな自分を見つけて少し自己嫌悪に陥ったり。
持っているものを必死に数え上げつつそれが虚しいのは、いつかそれを失くす予感がそこにはつきまとっているからかも知れない。


逆に失ったものを人と一緒に数え上げる時、失くしたものを嘆き合いながら、私たちは優しさを互いに交換できる。
私たちは、川の流れの中で、何かを失いながら、少しずつ優しさを学ぶのかも知れない。


オリーヴ・キタリッジの生活 (ハヤカワepi文庫)

オリーヴ・キタリッジの生活 (ハヤカワepi文庫)