「時の娘」 ジョセフィン・テイ 著
グラント警部が発見したのは、時の権力者たちや民衆によって、都合よく書き換えられる「物語」と、精一杯生きた1人の不幸な男性の姿だった。「真実は時の娘であり、権威の娘ではない」。まさに、フランシス・ベーコンのこの言葉ほど、この作品に相応しいものはないだろう。
先日、ふとネットで目にした突然のニュース。
「英リチャード3世の遺体、500年ぶり発見か 鑑定結果発表へ」
”リチャード3世”と言えば、シェークスピア、「馬を!馬をよこせ!代わりに我が王国をくれてやる」…ではなく。
やっぱり私にとっては、リチャード3世と言えば、J・テイの「時の娘」。
そして
「駐車場で発掘の遺骨はリチャード3世、500年の謎に終止符」
との続報には、この作品「時の娘」再読熱がふつふつと掻き立てられてしまった。
というわけで。
読みかけの本を放り出し、何年かぶりに再再…読となった。
スコットランドヤードのアラン・グラント警部は、犯人追跡の折に怪我を負い、長期入院の憂き目にあう。
彼は退屈な入院生活の暇つぶしとして、友人で女優のマータに複数の肖像画を持ってきてもらう。
様々な歴史上の人物たちの肖像画を見ながら、刑事としてその風貌から実際の人物像を推理していくのだが、ただ一つ、ある肖像画だけは彼の推理と実際に歴史上の評価が著しく異なっていた。
それが文庫本の表紙にもなっている端正な顔をした中年男性、リチャード3世だ。
入院中の彼は、手近な看護婦に教科書を貸してもらったり、マータに図書館で本を借りてきてもらったり、そして彼の指示に従って調べものを引き受けるアメリカ人青年を手に入れる。
そして、アームチェア・デテクティブとしてリチャード3世の謎に挑んだグラント警部が発見したのは、時の権力者たちや民衆によって、都合よく書き換えられる「物語」と、精一杯生きた1人の不幸な男性の姿だった…。
ああ、何度読んでも、この作品はいい。
歴史に対する純粋な好奇心、探究心と、なにより、リチャード3世という人物に対する愛情に溢れている。
最初に読んだのが学生の頃だったせいか、グラント警部は私の中では白髪混じりのおじさまだったのだけれど、テイの他の著作を読んでみると、この頃のグラント警部は犯人を追いかけてマンホールに落ち込んだりするぐらいだから、結構若い。
今回はグラント警部が、2人の看護婦に命令をされて拗ねてみたり、早く退院をしたいとごねてみたりといった様子に「かわいいなあ」などと失礼な感想を持った。
最近、仕事上で多数の方が書いた原稿や作文を読む機会があったのだけれど。
不思議なもので。
書いたものには、書き手の人となりが自ずとにじみ出ている。
それは隠して隠せるものではなく、表面から香りのように立ち上るもの。
「時の娘」の中でも、リチャード3世が愚かな選択をしてしまう自分の家臣に出した手紙をグラント警部が読むシーンがある。
そしてその怒りよりも悲しみに溢れた文面に、リチャードの善良な心を感じ取り、グラント警部は嘆息する。
これは、人間の寛大さがその当人に対しては何一つ利益をもたらさない場合の見本だ。
戦に勝利し、権力を手に入れた後も、うち負かした相手にあくまでも寛大に対応をしたリチャード3世。
その寛大さが仇になり、彼の治世は早々に終焉を迎える。
そして時代は寛大な王を葬り去り、負けた相手の血族を根絶やしにしたヘンリー7世、チュードル朝の時代へと移り行く。
そしてトーマス・モアはチュードル朝の王たちの支配下で「2人の甥を殺した恐ろしい王」についての物語を綴るのだ。
けれど、彼をよく知っていたヨークの町の人々が、リチャード3世の死に際して書きしるしたこの言葉もまた、残された。
この日、われらの良きリチャード王は、むざんにも斬殺されたもう。われらが町の大いなる悲しみなり。
「真実は時の娘であり、権威の娘ではない」
まさに、フランシス・ベーコンのこの言葉ほど、この作品に相応しいものはないだろう。
- 作者: ジョセフィン・テイ,小泉喜美子
- 出版社/メーカー: 早川書房
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