「空白を満たしなさい」 平野啓一郎 著

一度死んだ人間が生き返り二度目の生を生きるという、少々SF風、オカルト気味の不思議な現象をモチーフにしながら、著者の主張は、しごく真っ当でオーソドックス。一度きりの生のかけがえなさだ。



すでに亡くなった人が突然、なんの前触れもなく甦る、そんな不思議な現象が世界のあちこちで起こる。
主人公の徹生もその「復生者」の1人。
3年前に妻と一人息子を遺して亡くなった彼も、ふいにこの世に甦った。
ところが徹生は自分の死亡した経緯が思い出せず、再会した妻に自分の死因が自殺だったことを知らされて驚く。
自らも幼い頃に父を病気で失っている徹生は、周囲の人々に自信を持って反論する。
違う、自分は幼い子供を遺して自殺するような人間ではない、自分は殺されたのだ。


徹生もなんの心当たりもなく、自分は殺されたのだと思っていたわけではない。
死亡する以前から彼に何かと絡んできては、耳障りな発言を繰り返していた警備員の佐伯という男。
彼が自分を殺したのだ、そう確信し、当初は佐伯を探そうとする徹生だが、その中で妻や母と語り合い、多くの復生者と出会うことにより、やがて第一の生とその最期の謎への執着を離れ、第二の生をいかに生きるべきなのかを真剣に考え始める。


第二の生で、自分の死因について探るうちに、徹生が学んだのは「分人」という考え方。
人は誰でも、その場や相手によって表出する「自分」を使い分けているというものなのだが、肝心なのは、その使い分けを否定しないということ。


たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。 〜「私とは何か」より 


この考え方は、著者の著書である「私とは何か」の主要テーマでもある。
徹生はこの考え方に出会って、自分を許す術を学ぶ。
許せないことをした自分、許せないことを考える自分をまるごと否定するのではなく、許せない「分人」だけを切り離す。
そしてどの人にもおそらく一つはあるであろう自分が「好き」と思える分人を足場にして、生き難い生を生きていく。
こう考えることで、どれだけの人が救われるだろう。


実は、私自身が最も気になった登場人物は、第一の生だけではなく第二の生においても、徹生を混乱させ、その汚い感情をむき出しにさせた男、佐伯だ。
彼のような人物を、私はインターネット上のSNSで、掲示板で、様々なブログのコメント欄で何度も見かけた。
彼らの発言の目的は、憂さ晴らしや人を傷つけることにあり、時には世論を撹乱することにある。
そしてその言質は、一方的で自分勝手で無責任だ。
ところが一方で、徹生も感じたように、彼らの言葉は実に鋭い時もあり、無責任に投げられた言葉のナイフに核心を突かれ、見えない傷を魂に刻まれる人もいる。
インターネットは、様々な人々との出会いを可能にした反面、無意味にそして残酷に人の心が傷つけられる機会を格段に増やしてしまった。
そんな時代だからこそ、分人という考え方に価値がある。
ただ、この佐伯については、どのような思いで彼が行動していたのか、彼のような人々とどのように向き合えばいいのか、それらが本作では少々消化不良な気がしたのが残念だった。


主人公の名前は、「徹生」。
生を徹する、とことんまで貫き通すということ。
それは、第一の生においては彼が裏切ったことであり、再びの生では彼が精一杯に行おうとしたことだ。
一度死んだ人間が生き返り二度目の生を生きるという、少々SF風、オカルト気味の不思議な現象をモチーフにしながら、著者の主張は、しごく真っ当でオーソドックス。
それは、一度きりの生のかけがえなさだ。


かけがえのない生を生きるということ。
それは、今この瞬間を慈しむということ。
名前を呼ぶと、息子が満面の笑みでこちらに駆けてくる、それを笑顔で迎える、その一瞬を。
この一瞬こそが、人生のかけがえのなさ、そのものだから。
それを味わうのだ、最後の瞬間まで。


空白を満たしなさい

空白を満たしなさい