「小さいおうち」 中島京子 著

愛おしい、優しい家族の物語が最後の最後で反転するのは、家族はいつまでも同じ形ではいられないという哀しいさだめを表しているのかも知れない。いずれにしても、いつもより長く家族とともに過ごしたお正月。このかけがえのない存在たちとも、いつか別れがくるのかと、切なさが胸に迫った本でした。



仕事で高齢者の女性に聴き取りをする機会が多いのだが、
「◯月◯日に、どんなことがありました?この時にどんな話をしたんですか?」
こんな質問をしても返ってくるのは、大抵は「覚えていません」という返事、そして沈黙。


こんな時、聴き取りをするのが比較的最近のことなら、いつも使う言い回しがある。
「◯月◯日は、火曜日、天気は晴れでしたよ。この日はどんなご飯を作ったんでしょうね。お洗濯はしたかしら?」
不思議なもので、そこから会話が始まる。


「火曜日はお父さん(夫)の病院の日だから、洗濯はしないわ。洗濯は月曜日にやっておくの。お父さんは病院から帰ってきたらくたびれてるから、大抵は好物の魚の煮付け。だから午前中に買い物に行くの。ああ、そうだ。あの時は赤魚が安かったから、買って帰ったんだった…」


毎日毎日同じことをしているようで、その日の天気や特売の商品が違っていれば、毎日の家事はいつも異なっている。
外出していても、仕事をしていても、次に行うべき家事が頭の底で巡っている。
数年前の家計簿を見ているだけで、その日の天気や食事のメニューが浮かんでくることもある。
家事をする人の記憶の中では、小さな出来事や事件が、家事という紐でくくられているようだ。
家事は記憶の紐帯である。


そして、家事の先には、いつも家族の存在がある。


夫と妻と幼い息子の住む小さいおうち。
女中さんだったタキちゃんが守ろうとしてきた赤い瓦屋根の洋館には、確かな毎日とささやかな幸せがあった。
昭和初期の頃、細やかな毎日の暮らしの描写は、与えられた仕事と役割を丁寧に生きているタキちゃんの生き方を映し、愛おしい。


ところが、現代のタキちゃんは、家族もなく親戚とも疎遠で守るべき存在を喪失している。
その代わりに、その指から紡がれるのは、今は亡き優しく美しい奥様を中心とした暖かい家族のタペストリー。
だけど、見事な模様の中に、描こうとしても描けない裏切りと後悔。
最後に、その模様を代わりに描いたのは、彼女の唯一の心通わせた「家族」である甥の健史だったというのは、やはりこの本が「家族のものがたり」である所以であろう。



愛おしい、優しい家族の物語が最後の最後で反転するのは、愛しさだけでは生きて行けない人の生のさだめを表しているのかも知れない。
そして、家族はいつまでも同じ形ではいられないという哀しいさだめを表しているのかも知れない。
いずれにしても、いつもより長く家族とともに過ごしたお正月休み。
このかけがえのない存在たちとも、いつか別れがくるのかと、切なさが胸に迫った本でした。


小さいおうち (文春文庫)

小さいおうち (文春文庫)