「私とは何か ーーー「個人」から「分人」へ」 平野啓一郎 著

自分ってなんだろう。「本当の私」はどこにいるんだろう。そんな疑問を感じた時、少し世界の見え方を変えてみるのはどうだろう?



自分ってなんだろう。
目の前に現れる他者にとって、「私」は明るい私であったり、真面目な私だったり、怖い私であったり。
何人もの「私」がいても、私はそれでも混乱することなく、バランスを保って毎日を過ごしている。
だけど、ひところ流行った文句ではないけれど、「本当の私」はどれなんだろう。
こんなに沢山いる「私」が、もし、どれも本当の私でないのなら、「本当の私」はどこにいるんだろう。


若い頃ならスーツケースを抱えて旅にでも出るところだけれど、そこそこ年齢を経て、最近では、この質問の回答は「世界のどこか」ではないような気がしていた。
仕事で、私用で、たくさんの人と出会う中で、鏡がない限り自分の目で自分を眺めることが出来ないように、おそらく本当の「私」は他者という鏡に映る像の総体ではないかと漠然と考えるようになったのだ。
私にとって、この本はまさに日頃のもやもやが晴れるような、そんな”膝を打つ本”となった。


この本で、著者は「個人」という言葉を退け、あえて「分人」という聞き慣れない言葉を作り「私」というものを説明をする。


まず、主張の前提として著者は、「人格は分けることが可能だ」とする。
そもそも「個人」は英語で「individual」、直訳すると「不可分」ということになる。
だからこそ「本当の私」「唯一の私」という概念が成り立つわけだが、著者はこれに対して、以下の主張をもとに分けられる個人、「分人」という考え方を提示する。


たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。


そして、では人格とは何なのか、という問いに対しては、


私たちは、朝、日が昇って、夕方、日が沈む、という反復的なサイクルを生きながら、身の回りの他者とも、反復的なコミュニケーションを重ねている。
人格とは、その反復を通じて形成される一種のパターンである。


というのである。


本書では、上記の前提をもとに、著者が本当の私とは何か、どこにあるのか、他者との関係はどう対処すれば良いのか、死者との関係をどう考えればいいのか、人を愛することとは、という難しい問いに向き合う。


中でも私がおおいに首肯したのは、どうしても性格が合わない他者について、この分人という考え方によると、私の分人の一つが、その他者の分人の一つとたまたま合わないのだ、という考え方をするという段。


それは、決して全人格を否定しているわけではない、全人格を否定されているわけではない、そしてそれは終わりではないことを意味する。
ある場面、ある境遇においては、もしかしたら、その他者と分かり合える可能性があるのかも知れない。
あるいは、日々その他者と触れ合うことで、私たちの分人は互いに影響しあい、絵の具が他の色に混じって色が変化していくように、変わっていくかも知れない。


この考え方は、最後に、著者が提唱する「私たちは社会の分断をどう乗り超えて行くのか」という問題提起とその答えに繋がって行く。
そして、今ほど、この「社会の分断を乗り越える知恵」が必要とされる時代はないのではないだろうか。


久しぶりに頭の回路が切り替わり、新鮮な気持ちで世界に向き合うことが出来た。
著者の語り口にも好感が持て、他の著書にも手を出してみようかと思っている。
いつもと違う景色が見たくなった方、この本を読んで見ませんか?



私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)