「ピダハン 『言語本能』を超える文化と世界観」 D・L・エヴェレット 著

アマゾンの奥地でピダハンという部族と暮らし、伝道師としてキリスト教を伝えるはずの著者が、彼らとの30年の交流を経たのち、信仰を捨てて自らが変わっていくことを選ぶ。なにが彼をそうさせたのか。



本書はアマゾンの一部族、ピタハン(正確にはピーダハンと発音する)と30年に渡り関わり続けてきた著者の研究と交流の経過が描かれる。
そして、彼らの(西洋人からみると)不思議な言語や文化を学ぶうちに、いつしか、著者はキリスト教の伝道師から無神論者に変わってしまうことになるのだ。(この点は本の裏表紙に紹介してあります)


熱心な伝道者だった著者を変えてしまったピダハンとはどのような民族なのか。
ピダハンの物質文化は非常に質素で、道具も使い捨てにする程度のもので、基本的に道具は村の共有物だ。
装飾品も悪霊を祓うネックレスなどはあるが、さほど凝ったものではなく、著者の見る限り工芸品としての価値があるとは思えない。
またピダハンは個人の財産を持たず、数少ない財産は平等で村の住民は同じ村の住民を助ける。
家も簡単に風に飛ばされるような「ヤシのもの」と少し丈夫な「娘のもの」の2種類しかない。
そのどちらも、少し強い風が吹けば飛ばされてしまうような家だ。
そもそも財産がないのだから、それを保管する家に対する執着も薄いのだ。


当初、著者はこの「つまらない」ピダハンのもとにやって来た自分を哀れむ。もっと人類学的に興味深い民族のところに派遣されたら良かったのに…。


ところが生活を共にするうちに、著者の中にピダハンに対する敬意が芽生えてくる。
彼らは働き者で、同じ部族の者を大切にしており皆で助け合って生きている。
死への恐怖もなく、信じているのは結局は自分自身だ。
このピダハンの生き方はどのような哲学に基づいて形成されているのか。
著者は長年のピダハン言語の研究によって興味深い発見をする。


ピダハンの言語には数の概念がなく、色を表す言葉もない。
しかし著者の発見の中でなによりも驚くのは、彼らの言語には時制がないということだ。
そのためなのか、ピダハンには他の部族などで見られる創生神話がない。
過去も未来もなく、あるのは「今ここ」、自分が体験している今だけなのだ。
著者はこの話法、または彼らの考え方の基本を『直接体験の原則』と名付ける。
この「今ここ」の感覚。
これこそがピダハンたちが毎日を笑顔で幸せに暮らせる理由なのではないか。


著者は彼らに最上のもの、「神」や「天国」を提供したいと思っていたけれど、あっさりとその必要はないとピダハンたちに遠回しに断られてしまう。
今ここを生きるピダハンは、自分の目で目撃したものしか信じないのだから。


「おい、ダン。その男(イエス)を見たことも聞いたこともないのなら、どうしてそいつの言葉をもってるんだ?」


ピダハンにとって真実とは、魚を獲ること、カヌーを漕ぐこと、子供たちと笑い合うこと、兄弟を愛すること、マラリアで死ぬことだ。


そして彼らはそれで満足している。
自らの哲学で充足し、幸せでいる人々に「なにを」伝道しようというのか。


そして、キリスト教の伝道師として、ピダハンたちに「無意味な生き方をやめ目的のある生き方を選ぶ機会を、死よりも命を選ぶ機会を、絶望と恐怖ではなく、喜びと信仰に満ちた人生を選ぶ機会を、地獄ではなく天国を選ぶ機会を」提供したいと思っていたはずの著者は、今ここ、の『直接体験の原則』で生きる実利的、現実的なピダハンの前に自らの信仰に迷い、結果としてキリスト教の信仰を捨ててピダハンの哲学を受け入れる道を選択する。
それが家族を崩壊させることになろうとも。
もちろん、棄教は彼自身の中にその要因があったのだろうと思う。
しかしピダハンの生き方を知ることがその要因を目覚めさせる役割を果たしたのは間違いない。


他にも、素人の私はもとより言語学を学んだ方なら尚更、従来の言語学のアプローチを覆すような興味深い指摘が多々あり、著者の科学者としての側面にも感じ入るに違いない。
秋の夜長に、興奮の一冊。
オススメです。


ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観