「ネゴシエイター 人質救出への心理戦」 ベン・ロペス 著

究極の目標は「人質を無事に救出すること」。決して「犯人逮捕」ではない。なぜって、「誘拐」も「交渉」もビジネスだから。


本書の冒頭で「身代金目的の誘拐事件の実相」と題して、このような事実が羅列されている。


・誘拐事件は毎年、二万件以上報告されている。
・そのうち当局に通報があるのは十分の一にすぎない。
・世界で起きる誘拐の件数は、過去十二ヶ月で百パーセント増加している。
・全誘拐事件の半数以上がラテンアメリカで起きている。
・誘拐事件の七十パーセントは身代金の支払いで解決する。力ずくでの人質救出はわずか十パーセント。
・拉致の七十八パーセントは被害者の自宅、または仕事場から二百メートル以内で起きている。
・ほとんどの誘拐がウィークデイの午前中に行われる。
・身代金の要求額の幅は五千ドルから一億ドルまで。

などなど…


身代金目的の誘拐は別名「K&R」(キッドナップ アンド ランサム)と呼ばれる。
著者はK&Rのことを、このように表現する。


K&Rは癌のようなものだ。国に発生すると、広がる。根付く。国から富を搾りあげる。ある階層の人たち  ーごくふつうの礼儀正しく、勤勉で、国民を泥沼から引き上げることができる人たちー  の心に恐怖を植えつける。それは観光や投資のような利益をもたらす産業を蝕む。


このような卑劣な犯罪が広がった 原因の一つは、南米や東アジアの国々に広がる国内の貧富の差や世界的な国家間格差の拡大。
加えて、半ば破綻している国家運営と警察組織の腐敗など。
これらの要因が、人を、簡単に大金を手に入れることが可能な誘拐ビジネスに人を誘い込んでいるのだ。


このK&Rの流行が全世界に広がるにつれ、多くの大企業が重役たちに「K&R保険」をかけるようになった。
著者であるベン・ロペスは、このK&R保険会社などの依頼で、世界各地の誘拐の現場に出向く心理コンサルタントかつプロの交渉人、ネゴシエイターである。
彼は、K&Rの被害者や被害者の家族に心理学者としてサポートし、同時に誘拐犯たちと直接交渉を行うこともある。
時には交渉部屋を離れて、犯人の元に身代金を運ぶことも。


彼の交渉は、基本的に「利益調整」だ。
人質の価値を出来るだけ低く見積もらせ、かつ、迅速に合意に導くこと。
それは保険会社の利益に繋がり、ひいては被害者の利益に繋がる。
「利益」
そう、何度も言うが、K&Rは純粋にビジネスの話として論じるのが一番わかりやすい。
誘拐を一つの経営上のリスクとして捉え、いかにそれによるコストを下げることができるのか。
K&R保険もネゴシエイターもそのような現実的な必要によって生まれたものだ。


著者は、決してこれを是としているわけではない。
可能であれば、犯人を捕まえること、正義の実現を願っている。
しかし一方で、K&Rが蔓延る国々では、警察への通報は全誘拐事件の10%というほど警察組織への不信は大きい。
いや、そのような国では、犯人側に警察関係者がいることも稀ではない。
また、誘拐事件の70%は身代金の支払いで解決し、強行的な人質救出作戦の成功率はわずか10%という統計上の数字が、身代金値下げ競争的な交渉へと被害者やその関係者を導くことになるのだ。


このように、K&Rは徹底的にビジネス的である一方で、なによりも人間的であるという矛盾を孕んでいる。
人と人との間に生まれ育った「愛情」こそが、K&Rが成り立つ大きな理由であるから。
親として、夫として、妻として、子供として。
人質に愛情を持っているからこそ、人は莫大な身代金を払ってでも人質を取り戻したいと願う。
そして、犯人もまた、人質が愛する家族や友人を持っているからこそ、誘拐をするのだ。
天涯孤独な者を誰が誘拐するだろう。
人を愛するということはリスクを伴うのだ。


腐り切った世界で、時に誘拐犯は身近な人であったり、誘拐された妻の救出を必ずしも望まない夫もいる。
著者が突きつける数々の現実。
ネゴシエイターの仕事にのめり込むにつれ、著者がそのスリルと矛盾と醜さに壊れていくような気がしてふいに怖くなる。
昔、仕事にのめり込むあまり「あなたはジャンキーよ」と指摘されたことを思い出す。
傷つくことは分かっていながら、人間と人間との命をかけた交渉の現場から離れられない、そんな気持ち。


ボストンバッグにカフェインの錠剤プロ・プラスとレッドブル詰め込んで。
そして、彼は今日も世界中を飛び回るのだ。
愛する人をその家族や友人たちの元に取り戻すため。
ポケットに、自分と現実を結びつける唯一の絆であるゴムのニワトリを忍ばせて。


ネゴシエイター―人質救出への心理戦

ネゴシエイター―人質救出への心理戦