「選択の科学」 シーナ・アイエンガー 著

今回は書評というよりも、「選択」について日頃考えていることについて書いてみたい。


この本を読んで、大学院で「ナラティブセラピー」について学んだ時のことを思い出した。
この本は選択そのものの適否について論じた本ではなく、選択をしたあとの、その理由付けを、どう自分の中で物語るのか、ということに主眼を置いて論じた本なのではないかと。
ナラティブセラピーにおいて、人が過去の語り直しに救いを見出すように。


一番最初の章に
「すべては物語から始まる」
というジョーゼフ・キャンベルの言葉を持ってきたのは、その答えを先に提示していたのかも知れない。



仕事柄、人に選択をお願いしなければいけないことがある。

Aという解決策があります。
Bという解決策があります。
どちらを選びますか?


もちろんAを選択することのリスクやメリット・デメリットについて、同じくBを選択する場合も当然ながら、きっちり説明をする。
その上で、「どちらにしますか?」と尋ねる。
時には「私には決められません。決めて下さい」と言われることもある。
だけど、私は「時間がかかっても良いので、あなたが決めて下さい」と言う。
「どちらを選んでも、私たちはできる限りの支援をします」と伝える。


時折、同僚にも「こちらで選んだら?」「この人選べないよ?」と言われることもある。
確かに、迷っている人を見るのはつらいし、仕事が山積みの時に決断を待つのは面倒だ。
だけどあえて、そうすることにしている。
今までの経験上、自分で自分の解決策を選ぶという行為が、私にとっても相手にとっても後々、大切な経験になると知っているから。
体験的に、後日「結果はどうあれ、あの時こちらを選択して良かった」と言ってくれるのは、たいていは自分で選択をした人だった。
「あの時、どうしてこちらを選ぶように言ってくれなかったんですか?」と言ってくるのが、たいていは選択権を私たちに譲った人であるように。
多分、何を選んだかは重要ではない。
「選ぶ」という体験が、選んだ自分を支えている。
どんなに結果が残酷であっても。
選んだ勇気が自分を支えている。



この本では、このような疑問も提示されていた。
私たちは『選ばされて』いるのかも知れない。
確かに。
私が選択肢を提示する際、「Aを選べば良いのに」という気持ちがあることはよくあることだ。
そんな時、説明をする言葉にその感情が混入していることもありうるし、目配せやジェスチャーにそのような気持ちを込めてしまうかも知れない。
人間のすることだ。
そのような可能性は、否定できない。
しかしこの本でも指摘しているが、大事なのは、どれを選択したかではない。
自分で選択をしたそのことが大事なのだ。
私たちはおそらく、自分で選んだという物語を必要としているのだ。


それはなぜ?


「神は人間を、賢愚において不平等に産み、善悪において不公平に殺す」
    ー「人間臨終図巻」山田風太郎

風太郎先生の言うとおり、最初から最期まで人間は不平等で、だからこそ人は「この運命は自分で選択した」という物語を求めるのだと私は思う。


選択の科学

選択の科学

人間臨終図巻〈1〉 (徳間文庫)

人間臨終図巻〈1〉 (徳間文庫)