あなたの話を聞かせて下さい

仕事で当事者の話を聞いていると、物語を読んでいるような気持ちになる。

昔から読書に関しては雑食系、いつも腹を空かせて、がつがつと読んできたし、どんなジャンルの本も読めると思っていた。

今は本を読むように、毎日人間の物語を読んでいる。


人はみな自分の物語を語る語り部だ。
「あなたの話を聞かせて下さい」
とお願いすると、さまざまな語り口でその人の物語を聞かせてもらえる。


時々ファンタジーやSFめいた物語を聞くこともある。
人工衛星で24時間見張られているという女性には「トイレに行くにも油断ならない、息詰まるような日常」の話を聞かせてもらった。
別の女性には「・・・夜、寝ている間に天井から油が染み出てきて、ぽたり、ぽたり、と・・・」というホラーも聞かせてもらった。
そんな時、私も話し手と一緒に不安に包まれ、恐怖に震える。
「そんなことありませんよ」「それは何かの勘違いではないですか?」と質すことは出来るけれど、いっそ一緒にその物語に入ってしまいたいと思う。
私の言葉を語り手に届けるためには、語り手と一緒にその物語に入るしかないと思うから。


しかし互いに争う当事者同士の話を聞くと、本当にこれが同じ出来事を語っているのかと疑いたくなるほど、そこには接点がない。
芥川龍之介の「藪の中」を思い出す。
それは似て異なる、パラレルな物語だ。
もめごとを解決するためには、このパラレルな物語に接点を発見しなければならない。
またはパラレルな物語に共通する登場人物として、私自身が接点を作る場合もある。
しかし接点を作るだけではもめごとは終わらない。


先日、20数年前、不倫騒動、DV事件で大騒ぎを起こしたカップルが結婚をしたというニュースが流れた。
インタビューで、2人が別れてから今日に至るまでの23年間の来し方を聞かれた男性は、女性が「ちょっと散歩」をしていて、男性が「反省をしながら散歩の帰りを待っていた」と語っていた。
その間、女性は1度結婚し、男性は2度結婚をしている。
彼は、過去23年間を自分たち2人が今回再会するまでの準備期間と総括してしまった。
しかし、当然ながら、それぞれの再婚、再々婚相手たちにとってその来し方は、きっと違う物語、違う言葉で語られる物語のはずである。


ことほどさように、人はみな、自分の物語を自分の言葉で語る自由を持っている。
そして、その物語は、どの物語とも決して重なることがないまま、完結してしまうことも多々あるだろう。
つまり人の世は、それぞれがパラレルな、人の数ほどの主観的な物語群で出来上がっているのではないだろうか。
では、物語が重なり合わないのなら、重ならない物語を語る人たちは、どうやって互いに理解し、許すことが出来るようになるのだろうか。


アカデミー賞を受賞した、納棺士を主人公とする映画を特集したTV番組で、
「映画の中で、なぜ遺された人が、生前わだかまりのあった死者を許すことが出来るようになるのか」
という司会者の問いに対して、ゲストがこのように答えていた。

納棺士によって死に化粧をして整えられていく死者を見つめることで、自分が今まで死者に対して持っていた主観的な思いや葛藤に、客観性の光が照らされるからではないか・・・。

主観の物語が、無関係の第三者の行為による「客観性の光」で照らされることで、オセロゲームの黒いコマが一斉に白いコマに反転するような、そんな瞬間が訪れる。

まさしく主観的な哀しみと裏切りの物語が、優しさと理解の物語に変わるのは、あたたかい感情を持って寄り添う第三者の行為・言葉に触れた時、気づいた時、そんな時かも知れない。
それを信じて、今日も絡まった糸をほぐすために「あなたの話を聞かせて下さい」と語りかける。