記憶を語るということ

高校の同級生たちと久しぶりに集まった。
私は吹奏楽部に所属していたのだが、同じ学年の元同級生たち18人のうち、その夜は14人が集合した。
アルコールが入ると、出るのは強烈なエピソードの数々である。
先輩の悪口をその当の先輩がいると知らずに大声で言ったこと、コンクールの当日に楽譜を忘れて大騒ぎになったこと、夜中に滞在中の宿舎を抜け出し近所の公園にのぞきに出かけたこと・・・。


そのうちA君が突然、「そう言えば、B子がC男と手をつないであの道を歩いてたよな」と言い出した。
一瞬、その場がしーんとなる。
「ほら、2年の文化祭の後、打ち上げで遅くなってさ。みんなでバスに乗って帰って、B子の家に行く途中のトンネルのある道で。B子がC男に手を引かれて歩いてるのを俺、見たんだよね」
かなり具体的なのである。
A君の上手な語り口に誘われて、男子の中には「そう言えば・・・」などと言い出す者も出てきた。
「冬の朝練の時にさ、B子がおにぎり作って持ってきていたのは、あれはC男にだったっけ?」
「そう言えば、全国大会に行った時、自由時間であの2人、消えたんじゃないか?」
C男がたばこを吸いに、B子がトイレに行っている間にやがて、「そうかあ、2人は付き合ってたんだあ」という結論が完成されてしまった。
5分後、妙に温かな視線にC男とB子は包まれ、いぶかしげな顔をして戻ってきた。


人間の記憶と言うのは、実にあいまいなものだ。
記憶というものは、常に、後日何度も何度も上塗りされる宿命を持っている。
そしてそのつど、語り部ごとに「それらしい物語」に変容していくのである。

もめごとの当事者から「十分な聞き取りを」と心掛けながらも、頭の隅にふと「これはどれほど上塗りされた物語なのだろう?」という疑問が浮かぶ。

もちろんどれだけ上塗りされた物語であっても、それがその人にとっての「真実」であるということは忘れないようにしながら。


私の記憶もまた何度も上塗りされた物語だ。
みんなと笑い合いながら、ふと思い出す。
私の物語の中では、高校生のB子は一途にA君のことを想い続けていた。
せつない記憶。
これも、私の何度も上塗りされた物語でしかないかも知れないけれど。