言葉の毒について

相談・交渉の話法の中で、当事者の言葉を意味を変えずに違う言葉に言い換えることをパラフレイジング、当事者の言葉を違う表現で異なる意味づけを行うことをリフレイミングという。
交渉術やカウンセリングの本では、実践的なテクニックとしてこれらの話法が紹介され、講座などで訓練を受けることも出来る。
私自身も、これらの話法を大学院の授業や様々な講座で指導を受け、実際の仕事の上でもおおいに活用している。
もめごとの渦中で、時に怒り狂い、時には悲観に暮れる当事者の話を、これらの話法で対応するうちに、自分自身の怒りや悲しみが、他の人の口を通じて違う言葉や表現で言い換えられたり、客観的に語られることで、当事者の気持ちが落ち着き、冷静さを取り戻す場合もあるのだ。

「殴ってやりたい!!」・・・「思わずこぶしを握ってしまったのですね」
「許せない。本当に最低な男です」・・・「今まで会った誰よりもひどい人だと思っているんですね」


これらは非常に便利なツールで、効果も実感できるので、最初は意識して使うようにしていた。
しかし現在はつい反射的に、かつ習慣的に使ってしまい、時には失敗することもある。


こんなケースがあった。
電話で、怒り狂い、相手方のことを罵倒する当事者の言葉に相槌を打っていた時のことだ。
会話が突然止み、冷静な声になった当事者から「・・・今、あなた私の言葉から毒気を抜いているでしょう?やめてくれますか?」と指摘されたのだ。
ほとんど意識しないまま、受け答えをしていたのだが、明らかにパラフレイジングやリフレイミングを多用していた覚えはあったので、私は慌てて謝罪した。
すると当事者は「いえ、あなたは私の言葉をとてもきれいのまとめてくれるので、つい聞き流すところだったんですが、それでは私の気持ちが相手に正確に伝わらないんですよ。きれいにする必要はありません。正確に『すごく恨んでる』『一生許さない』と私が言っていたと相手に伝えて下さい」。


自分自身の価値判断を出来る限り入れないこと。
もめごとに関わる中で、まずそう決めていたはずなのに、私自身が余りに激しい当事者の怒りの言葉に、汚いものから目をそらすように、これらの話法を利用していたのだとその時に気づいた。
そこに私の「見たい」「見たくない」という価値判断が介在していたのだ。
恥ずかしかった。

以来、これらの話法を利用する場合は細心の注意を払うようにしている。


だけど。
争っている一方からもう一方に、花束を渡してくれと頼まれたら、喜んで花束を差し出せる。
だけど毒を渡された時も、やはり毒を差し出すのが私の役割なのだろうか?
当事者が本当にそれを望んでいるなら、それを誠実に実行すべきなのだろうか。


でも、もし出来ることなら、毒そのものではなく、その人の「毒を渡さざるを得なかった」、その気持ちを差し出すことは出来ないか、そのための最適な言葉を探して私は試行錯誤している。