「坊ちゃん」 夏目漱石 著

無条件で誰かに愛される経験は、世界で生きていくのに、アドバンテージというかある種のプレゼントをもらっているのに似ている
正月休みに帰省したうちの息子を見て、涙ぐむ母。
とは言っても、これは息子の帰省のたびに繰り広げられる皆んなでちゃちゃをいれるまでがお約束のなじみの茶番である。
産後数ヶ月で仕事に復帰した私に代わり、なにかと面倒をみてきた孫。
病気ばかりしていた割には人並み以上に大きくなった姿を、自らの成果を確認するように、母はまぶしそうに見上げる。
正月にTVで放映された「坊ちゃん」を観ていたら、そんな茶番の数々を思い出した。
清のせいだと思う。


TV放映後、思わず「坊ちゃん」を読み返したくなり本棚の奥から引っぱり出した。
実は数十年前、学生時代に「坊ちゃん」を読んだ時、強い違和感を覚えた。
それは本書が”痛快”で、”愉快”な、”青春小説”というニュアンスで紹介されていたのに、ぜんぜん痛快でも楽しくもなかったから。
むしろ、数十年経っても覚えていたのは、坊ちゃんが清に借りていた三円を、

いまとなっては十倍にして返してやりたくても返せない。

とつぶやく文章や、清の眠る墓について書かれた最後の一文。
だから最初に読んだ時、それらは愛する人の期待に応えられなかった男の敗北宣言のようにも感じられて、とても痛快な気分にはなれなかったのだ。


都会から来た合理的精神と正義感の持ち主たる若者が、因習に囚われた鄙の掟と陰湿な人間関係を打ち砕きそこを去るという筋書きはそこだけ読めば確かに「痛快」という表現もあるかもしれない。
いやしかし、小林信彦さんの「うらなり」にもあるが、周囲の人々にとっては坊ちゃんのような人物はmyルールを貫くはた迷惑な人だったのではないだろうか。
とすると、去ったと言えばカッコイイが、去られた鄙の住民たちにしてみれば厄介払いができて御の字だったろう。
そう考えると、全編負け惜しみと清への懺悔にも読める。


では坊ちゃんは負けたのか。
清と坊ちゃんの関係に注目すると必ずしもそうは思えない。
だって無条件で誰かに愛される経験は、世界で生きていくのに、アドバンテージというかある種のプレゼントをもらっているのに似ていると思う。
水は上から下に流れる。
正義は勝つ。
人は愛し愛される。
それは必ずしも真理ではないし、年を経るごとに色あせていく約束ではあるけれど、人生の初期においてそれらの「約束」を信頼する基礎を誰かに与えられたということは、心の中に尽きない泉を持っているのにも似ている。
うわ、無敵じゃないか。


おれが東京に着いて下宿にもゆかず、革鞄をさげたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊ちゃん、よくまあ、早く帰ってきてくださったと涙をぽたぽたと落とした。おれもあまりうれしかったから、もう田舎にはゆかない、東京で清とうちを持つんだと言った。


年齢を重ねて再読してみると、なんとなくわかることがある。
清が汽車の消えるまで見送っていた気持ち、涙をぽたぽた落として坊ちゃんを迎えた気持ち。
生きてあと何回会えるか、顔を見ることができるか、と逆算している年長者の思いが。
毎朝、うちの息子の住む方向に向かって手を合わせるという母。
多分逆方向だと思うのだが、せっかくこれまで何年も続けている習慣なので言わずにいる。
地球は丸いし、多分その気持ちは清がそうだったように思う相手に届いているはずだから。

※引用は「坊ちゃん」岩波文庫 第71刷より


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