「アリスのままで」 リサ・ジェノヴァ 著

さまざまなものを失いながら、アリスはいつまで「アリスのままで」いられるのか。人はいつまで「その人」としてあり続けられるのか。


アリスは50歳、言語学の教授としてハーバード大学の終身在職権を得ている。
働き盛りで、夫は医師として充実した生活を送り、夫婦仲は良く、3人の子どもたちも上のアナとトムは弁護士、医師としてエリートコースを歩み、女優を目指す末っ子のリディアだけはアリスの望む方向、つまりアカデミックな世界には進もうとしないのが悩みのタネだが、それ以外はほぼ自分の望み通りの人生を歩んでいると言ってもいい。
そんな彼女に、ある時異変が起こる。
講義の途中でどうしてもある言葉が出てこない、いつもの道をジョギング中にいま自分がどこにいるかが分からなくなる、大事な出張の予定をすっかり忘れて帰宅してしまう…。
これらの「物忘れ」を更年期のせいにしてしばらくやり過ごすものの、あまりにあり得ない「物忘れ」が続くことから、アリスは医師のもとを訪れて検査を受け、最終的に遺伝性の若年性アルツハイマーという病名を宣告される…。


映画を観て、そして本書を読んだのだが、映画はほぼ原作に忠実で、この作品でアカデミー主演女優賞を受賞したジュリアン・ムーアが頭の回転の早い優秀な研究者であり、頼もしい妻、母である女性アリスを丁寧に、そしてそれが壊れていく姿も含めてリアルに演じていた。
ジュリアン・ムーアの母親も精神科医とのことだが、作者もまた神経科学の博士号を持ちハーバード・メディカル・スクールで研究を重ね現在も米国アルツハイマー協会のコラムニストであるといういわば専門家。
そのため、アリスが刻々と認知能力が低下し、周囲とのズレが深刻化し、孤独と恐怖が深まる経過が、患者の心のうちに寄り添った丁寧な描写で描かれる。
なによりどんな場面でも、著者が患者の尊厳を守ることを心がけていることがとても伝わってくる。


遺伝性のアルツハイマーの遺伝子は二分の一の確率で子供たちに受け継がれている。
アリスが母と姉を交通事故で死なせたと長年恨み続けた父親から、それを受け継いだように。
子どもには親を選べない。
アリスの子どもたちの中にも、この遺伝子を受け継ぐ者がいることがわかる。
これはつらい。
自分が病気になることよりも、子どもの未来を自分が原因で狭めることになるとは。
しかし病気が進行し、アリスはやがてその子どもたちすら認識できなくなってしまうようになる…。


アリスや家族は希望を失わず、さまざまな薬を試したり訓練を続けるが、残酷なほど淡々と病は進行していく。
それとともに、アリスが持っていた素晴らしい地位も、生きがいだった仕事も、優秀な能力も、体力も、まるで指から砂が漏れていくようにどんどん失われていく。
残酷な、しかし、それは時を遡ることができないこの世の理を人に教えてくれているような気もする。
さまざまなものを失いながら、アリスはいつまで「アリスのままで」いられるのか。
人はいつまで「その人」としてあり続けられるのか。


すべてを失ったかに思えたアリスに最後に残ったものは?
ほぼすべてを忘れても、最後に覚えていられたものは?
映画もそうだったが、その答えが分かるラストシーンは忘れがたい美しさに満ちている。
これからの自分の生き方、社会との関わり方、さまざまなことを真剣に考えさせられた。

アリスのままで

アリスのままで