「これからお祈りにいきます」 津村 記久子 著

この世は人の願いと祈りが複雑に絡み合っている。人が自分の体の一部を犠牲にしてでも叶えたい願いとはなんなのだろう。

中編2作が収録されている作品集。

「サイガサマのウィッカーマン
ウィッカーマン」とは古代ガリアで信仰されていたドルイド教における生贄の家畜や人間を巨大な人型に閉じ込めて焼き殺す祭儀の名称だ。

高校生の主人公シゲルが住む町には不思議な風習がある。
サイガサマと呼ばれる神さまに願いごとをして、代わりに「持っていかれたくない」身体の一部を「申告物」として、冬至の祭りの日に人型に編んだ籠の中に入れ、一斉に燃やすのだ。
人々は紙粘土で、石膏で、折り紙でそれぞれ心臓や手や足など身体の一部を作っては申告物とし、些細なことから命に関わることまでさまざまな願いをサイガサマに伝える。


しかし、若作りをして不倫をしている父親に、家にこもって息子を相手に愚痴をこぼしピントの外れた世間話をし続ける母親に、不登校を続けながら紙粘土で捧げ物の臓器を作り続けている弟に、つまり家族全員にイライラしながら毎日を過ごしているシゲルにとっては祭りなんてどうでもいいことだ。
かつてはサイガサマについての自由研究で市長賞を受賞した過去も、今では顔中にできたひどい吹き出物と同じく、シャクのタネでしかない。
ところが今年の冬至の祭りを控え、最近シゲルの周りではサイガサマに絡んでいろいろと不思議な出来事が起こり…。


サイガサマという神さま、どうやらシゲルの調べるところでは「できない子」なのだという。
普通の「できる子」である神さまと違ってサイガサマは、かつて誤って願いを叶えるのと引き換えにその人の心臓を取っていったことがあり、以来人々は申告物を届けることにしたらしい。
しかし、作中にサイガサマに身体の一部を「持っていかれた」と思しきひとが何人か出てくるのだが、その誰もがみな、この神さまを恨むことなく、失くしたものを惜しむこともなく、ただ黙ってその「喪失」を受け入れているように見える。
その静かな諦念は、逆にこの人たちはどんな願いをサイガサマに叶えてもらったのだろうと考えさせられる。
人が自分の体の一部を犠牲にしてでも叶えたい願いとはなんなのだろうと。


ただただ家族に怒りを抱え他人を突き放し自分を憐れむばかりだった1人の少年が、さまざまな出来事や出会いを通じて、家族を守ろうと決意し、友人の幸せを願うようになり、人がサイガサマに祈るその気持ちの切実さを理解し始める。
少年が大人になる儀礼を通過するように、大きな炎とともにサイガサマの祭りは終わった。
さて「できない子」であるサイガサマはシゲルの願いを上手に叶えてくれたのか。
それともやっぱり…それは読んでのお楽しみ。
ラストは笑いと涙が同時に出てきて困ってしまった。


「バイアブランカの地層と少女」
主人公である大学生の作朗は可愛い彼女からはふられそうだし、実家は貧乏だし、シャツをズボンに入れてしまうクセがあるし(いやいや)で、まったくさえない毎日を送っている。
しかしさえない毎日の元凶はこれらではなく、おそらくなにかと余計なことを心配しすぎるという作朗の性格にある。
そのきっかけになったのは、高校時代に好きだった同級生みづきちゃんに言われた「十和田くんのうちの下、活断層が通っているね。すごい、本当に真下」という言葉。
しばらく不眠症になるほど悩み、今でも地震のたびに実家に電話をせずにはいられない作朗に友人のエンドーは「死ぬときは死ぬやん」とサバサバ言うのだ。


未だ起こらない不幸に対する大きな不安に囚われた作朗。
そんな彼が、ネットで知り合ったアルゼンチンに住んでいるフアナという少女とメールのやり取りをすることで、地球の裏側にある見知らぬ広い世界、そこで生きている彼女の生活を想像するにつれ、少しずつ外を向き始める。
そしてこの先も不安と共存しながら生きていくことを覚悟する…。


どちらの作品も若い男性が主人公で、いずれも強い自意識と劣等感、怒り、不安などにかられていて、見ていて少ししんどい。
けれど彼らが少しずつ他人とのふれあいの中で、ささやかな希望を見つけ出す姿には救われる思いがする。
どんなにさえなくても、どんな境遇にいても、どこかに何かに希望を見つけ出す力を持っている人を描くのが、本当に津村記久子さんは上手い。