「古書泥棒という職業の男たち 20世紀最大の稀覯本盗難事件」 トラヴィス・マクデード 著

「重視すべきは、盗まれた本の価値ではなく、本を盗むことは多くの利用者から読む権利を奪うことだという事実である」


以前、ある詐欺集団が摘発され、詐欺行為を行っていたという場所にカメラが入った。
ズラリと並ぶ電話機、TV画面に映る早番・遅番の引継書、申し送り表、新入りと指導員の名簿、各員の「売上高」グラフ、全員の目に入るところに貼ってある「目指せ!1000万円!!」などの檄文。
それは「会社」だった。
仕事帰りには一杯呑みに行き、上司の悪口を言いながら「よし明日も頑張ろう!」なんて言い合う「社員」もいたのかも。
犯罪であろうと正当な営利活動であろうと、その団体が発展する過程で効率的に収益をあげようと志向すると、その完成形は似てくるのかもしれない。
そしていったんそこに組み込まれた人は、目前に掲げられた目標に囚われ「会社」がしていることに対する批判精神を忘れ思考停止になってしまいがちなところも。


本書は、大恐慌の最中のアメリカで、「古書泥棒」という本を愛する者たちにとって最悪の犯罪を犯す、盗む者、売る者、買い取る者、転売する者の姿と、それぞれが莫大な利益を接着剤にして結びつき組織化されていった実態を描く。
その組織は拡大し、やがて図書館という実り豊かな畑で貴重な果実を収穫する窃盗たちが現れる。
なにしろ窃盗たちにとって図書館の本は「汲めども尽きぬ泉」なのだから。
そんな窃盗団を主宰するのはなんと図書館のお膝下で古書店を経営する店主たち。
店主たちはそれぞれ盗みを行う実行部隊として大恐慌で食いつめた若者などをスカウトし、図書館の本棚から次々に本を奪う。
そして盗み出した本は巧妙に蔵書印や型押しを取り除かれ、右から左に売りさばくか、危険な品は倉庫に保管される。
窃盗団の一つ、ロンム窃盗団は1930年には何百万冊もの盗品本を抱えていたという。


何しろ盗む者の大部分は、本の目利きができるわけじゃない。
手当たり次第にコートの懐におさめて素知らぬ顔で出て行くか、場合によっては司書の追跡を逃れ館内を走り抜け古書店に駆け込み数ドルで売却、そしてそれらは何人かのディーラーやコレクターの間を転々としながら、最終価格は数十倍、数百倍にも膨らむのだ。
もちろん古書店主やディーラーたちの中にも盗品には手を出さない、図書館に通報するという者もいるが、しかしそれは必ずしも良心的な理由によるものではなく、図書館という優良な買い手との関係を良好に保つという目的が潜んでいる。
いったい誰が悪玉で誰が善玉なのか、古書業界の奥深さを考えると簡単には判断は下せない。


もちろん図書館側も手をこまねいていたわけではない。
史上初の本専門の特別捜査員を任命し、そして多数の図書館司書たちもまた、さまざまな対策を立てて窃盗団に立ち向かった。
しかし彼らの努力を阻んだのは古書泥棒たちだけではなかった。
一番の問題は、判事をはじめとする警察・司法関係者による「たかが本泥棒」という認識だったのだ。


さて、このような状況の中で、白昼堂々とニューヨーク公共図書館(NYPL)から盗まれたポーの「アル・アーラーフ」。
ポーの詩集「タマレーン」は最近読んだ「書店主フィクリーのものがたり」でも物語の鍵を握るアイテムとして登場していたが、「タマレーン」の次作となるこの本もまた少数部数しか刷られず、ポーの生前は本人の楽観的な願望とは裏腹にさほど評価されずに終わった本だ。
ところがポーの死後、その市場価格は高騰し続け、著者によると「近い将来『アル・アーラーフ』が市場に出るとしたら、五〇万ドル近い値がつくだろう。」とのこと。
この本がデュプリという窃盗犯によってNYPLから盗まれ、何人もの間を渡り歩き、裁判を経てとうとうNYPLに帰還を果たしたのは約4年後。
その間の窃盗団側、特別捜査官を中心とする図書館側の攻防は読み応え十分。
図書館側の必死の努力でやっと首謀者に罪を認めさせることができた法廷の駆け引きは、本書の一番のヤマ場だ。


本書では最後に登場人物たちのその後が描かれるのだが、現実は必ずしも悪が滅ぶというわけにはいかないし、嘘をついて生きてきた者の大半は嘘にまみれつつ貪欲にその人生の大半を終えている。
しかしその中で、窃盗団の一味だったにも関わらず、地道な人生を送りたいと願い特別捜査官に協力、本に関する知識を生かして学校で学び司書になり、ついには特別捜査官になってかつて自分が盗難に関わった本を取り戻した男もいる。
どれだけ本と関わっていても、本から学んだことをどう生かすのかは、結局のところその人の魂のあり方、生き方次第ということなのだろう。


古書泥棒という職業の男たち: 20世紀最大の稀覯本盗難事件

古書泥棒という職業の男たち: 20世紀最大の稀覯本盗難事件