「漂流郵便局」 久保田 沙耶 著

その手紙たちは「予感」だ。今はここにいない誰かと、いつかまた巡り会える日が来ることを、信じさせてくれる。

漂流郵便局ーーー
それは瀬戸内海に浮かぶスクリュー状の小さな島、粟島(あわしま)にある届け先不明の郵便物を受け付ける郵便局。
寄せられた手紙たちを「漂流私書箱」に収め、いつか所在不明の存在に届くまで、手紙を預かってくれる場所だ。

過去/現在/未来
もの/こと/ひと
何宛でも受け付けます。

そもそもの始まりは、アーティストである久保田沙耶さんが粟島を訪れた際、廃業した旧粟島郵便局の建物を見学したこと。
その建物の趣と、島の波打ち際にうち寄せられた漂流物たちから、「漂流郵便局」のイメージを喚起されたのだという。
この久保田さんの「漂流郵便局」という作品に、かつて粟島郵便局に45年間勤務し、同郵便局の局長も勤めた中田さんが協力、彼女と2人で局員として(素敵な制服もあり!)全国から集まる郵便物を預かっている。
本書では、そのような手紙の幾通かが、差出人の筆跡そのままに紹介されている。


手紙、私信というのは本来他人が目にしてはいけないものという気がするので、最初はなんだか見せて頂くのは申し訳ない気持ちだったのだけれど、本書で紹介される「私信」は、読んでみると、ちょっと趣が違うようだ。
これらの手紙は、すべて著作権を「漂流郵便局」に譲渡され、郵便局ではそれらを局内に展示している。
つまり、手紙というものは送り主と名宛人の2人しか読まないことを前提に書かれるものだが、漂流郵便局に送られるそれは、不特定多数の人間の目に触れることを意識して書かれたものだ。
その意味ではこれらは純粋な「私信」ではなく、手紙の体裁を借りたアート、表現物でもあるのだ思う。


送り主たちは、手紙という形をとって名宛人への愛を叫んでいる。
自分の人生の空白を埋めるために。
こんな強烈な、あるいは切ない誰かへの思いを胸にしまって、人は今日もそれぞれの場所で生きているのだなあ。
家族に、
過去の自分に、
天国の友人に、
フォークダンスをしたかったあの人に、
金魚のキーちゃんに、
昭和20年、電車に乗り合わせた軍服姿のお兄さんに、
ぎんいろのうちゅうじんに。


そして、特に世の「息子」たちよ…。
LINEでもいい、ハガキでもいい、電話一本でもいい。
お母さんに連絡をしてあげて欲しい…あなたたちの筆不精のおかげで、日本の不幸指数が10ポイントぐらい上がってることが本書でよーく分かった。
気をつけて!母の愛は一転して呪いに変わることもあるのだから。


これらの手紙を見ていると、人の思いというものは一種のエネルギーで、まるで映画「インターステラー」のように、差出人の思いはいつか時を超え、空間を超え、それぞれの名宛人が、いつか必ずその思いを目にすることができる日がくる、そんな気がする。
だけど、そう信じてはいても、こうして宛てどころの判らない手紙たちを見ていると、切実に思うのだ。
大切な誰かへの思いは、本当は私たちが今生きている間に、できるだけ口に出され、文字にされなければならない、伝えられなければいけないと。
私たちは言葉を惜しんではいけないのだと。


漂流郵便局: 届け先のわからない手紙、預かります

漂流郵便局: 届け先のわからない手紙、預かります