「アンダーグラウンド」「約束された場所で」 村上 春樹 著

これは「分断」と「排除」について書かれた本ではないか。


いつも複数の本を並行して読んでいる。
今回は、ちょうど地下鉄サリン事件から20年ということで本書と、前作である「アンダーグラウンド」をやはり並行して読んでみた。
アンダーグラウンド」では、地下鉄サリン事件という我が国では前代未聞の大規模テロ事件で被害に遭われた人々の話を、そして本書「約束された場所で」では、この事件を起こしたオウム真理教の元信者、または現信者(当時)たちの言葉を著者が聴き取っていく。


今回、同時に読んだからなのか、それとも別々に読んでもそう思ったのか分からないのだけれど、驚いたのは、本書に登場する信者たちが語るのは、そのほとんどが自分の内面について、自分の在り方、自分の魂?の成長についてであること。
もちろん仲間のことや教団のこと、時には家族のことなどを語る場面もあるのだけれど、その中心にあるのはやはり「自分」。
彼らが見ているもの、考えていることが、ほとんど「自分」が起点で、他者は希薄な存在感しか与えられていない。
「自分」を突き詰めすぎて「自分以外」がどうでもよくなる状態というか。
アンダーグラウンド」で被害者たちが、不調を感じながらも仕事や同僚のことを思い必死に仕事場に行き着こうとしていたこと、事件後も雑多でささやかな日常、家族をはじめとするさまざまな人間関係の中で時に癒され、時に苦しんでいる様子ととても対照的だった。


本書に登場する信者たちは自分たちの居場所、あるいは真理(と信じるもの)を追求するために、仕事や家族、人間関係などの雑多なものをすっぱりと切り捨てる。
その葛藤のなさ、そしてそこに感じる私の違和感はなんだろう。
卑近な例えで申し訳ないが、茶渋などがついた使い馴染んだ茶わんと、漂白剤に一晩浸けたあとのピカピカと光った茶わんを覗きこんだ時の違いと言うか(私は茶わんに漂白剤は使いたくないタイプ)。
そこにお茶を注ぐことを一瞬躊躇するようななにかが、そこにはある。
自分だけではない、他者のケガレをも一切許さない峻厳さに触れるような、そんな怖さ。
なんでも白ければ(正しければ)いいってものじゃないだろう!って、私はなにを怒ってるんだろう?


巻末に著者と河合隼雄さんの対談があり、これがまた本当に秀逸な内容で、多数のインタビューで様々な人々の人生に思いを馳せながら、もやもやしていた頭がやっと整理できた。
そして考えたのは、これらは「分断」と「排除」について書かれた物語だったのではないかということ。


私たちの社会は、いくつもの境界線によって分断され、そのたびに「こっち」と「あっち」とに分かれてしまう。
国とか宗教とか人種とか、境界線が生まれる理由はいくつもある。
分断は排除をもたらす。
私は、社会の側が「オウム」を、境界線を引いて排除したのだと思っていた。
でも本書を読んで気づいた。
私たちの方が信者たちから分断され、排除されたのだと。
「オウム」と「オウム以外」という境界線のあっちとこっちで。
私たちは「オウム以外」であり、オウムのため、尊師のためならポアしてもよい存在である、と彼らに切り捨てられたのだと。
ああ、だから私は怒っていたんだ。


先日新聞でオウムの15被告の裁判を担当した元裁判官が「似たようなことは再び起きる」と発言していた。
河合隼雄さんも本書で著者にこう語る。

人間というのは、いうならば、煩悩をある程度満足させるほうをできるだけ有効化させようという世界を作ってきとるわけです。しかもとくに近代になって、それがずいぶん直接的、能率的になってきてます。直接的、能率的になってくるということは、そういうものに合わない人が増えてくるということですね、どうしても。

社会は不適合者を生み、その人を傷つけ排除する方向に向かおうとする。


社会の、目に見えないナイーブな部分で、分断と排除は常に起こり続けている。
排除され、いたたまれなくなった者は、居場所を求めてさまようことになるだろう。
そして、またどこかの、悩みや煩悩をきれいに説明してくれる目新しい「神さま」のもとに集まっていくのかもしれない。
宗教や国境によって排除された者たちが排除した者に牙をむいているのが、世界各地で起こるテロ事件ではないか。
そう考えると、社会における分断と排除は、なんらかの方法で回復され続けなければならないと思う。
と言っても、私ができることは、世界の片隅で分断と排除によって生まれた穴をささやかな針と糸で繕い続けることしかないのだけれど。


アンダーグラウンド (講談社文庫)

アンダーグラウンド (講談社文庫)

約束された場所で (underground2)

約束された場所で (underground2)