「甘美なる作戦」 イアン・マキューアン 著

最後に読者はこの作品こそが、彼が読者を罠にかけるために用意した愛しい愛おしいSweet Tooth作戦そのものであることを知るのだ。


本書は女性スパイと小説家を主人公に、複雑にして深い、そして甘い、甘ーい関係を描いた小説である。
著者は「アムステルダム」でブッカー賞を受賞したイアン・マキューアン
彼が本作で挑戦したのは、スパイが小説家に意図する通りの作品を書かせることができるのか?という、自分をモデルに実験したのかと尋ねたくなるようなきわどいテーマと設定だ。
本書には著者のものと思われる複数の作品が挿入されている(これが面白い!)上に、小説家ヘイリーとマキューアンの経歴に重なる部分が多く、ヘイリーと著者を重ねてしまうのは人情だろう。


冷戦時代、CIAはある文芸誌に資金提供し、イギリス外務省情報局はオーウェルの「動物農場」や「一九八四年」の翻訳権を買い取り無償で海外の出版社に提供したという。
このような芸術家やマスコミに対する工作を通して敵国国民の意識変革や潜在意識に訴えるという「思想の戦争」、ソフト戦略は、現在も各国の諜報機関において採用されているという記事を先日も読んだばかりだ。


さて主人公の女スパイは、イギリス国教会の主教を父として育ち、ケンブリッジ大学数学科を卒業し諜報機関MI5(ジェームス・ボンドはMI6。念の為)に入局した美しい女性、セリーナ・フルーム(羽根”ブルーム”と韻を踏む)。
そして本書は現在のセリーナが、40年近く前に自身が「イギリス内務省保安局(MI5)の秘密任務を帯びて送り出されたが、その任務から無事には帰還でき」ず、「入局してから十八ヵ月も経たないうちにクビになり、我が身の恥をさらして、恋人を破滅させてしまった」事件の顛末について語る、という形式で描かれている。
そしてこの秘密任務の作戦名(ところで、どうしても作戦にコードネームって付けなきゃいけないもの?)こそは、本書の題名でもある「Sweet Tooth(甘党)」なのである。


舞台は60年代から70年代はじめ、まだ冷戦が続き、女性の社会進出もままならなかった時代。
セリーナの経歴を聞くと、華々しい履歴と野心を持った才女と想像されると思うが、実は彼女はあくまでも「数学が得意」だっただけで、周囲の人々や専業主婦の母親の望みを託されて名門大学に行ったものの決して大それた望みを持ってはいたわけではない。

自分自身で決められたとすれば、わたしは故郷から遠く北か西に隔たった地方の大学で、怠惰な英文科の学生になることを選んだに違いなかった。わたしは小説を読むのが好きだった。

そう彼女は無類の読書好きで速読、乱読家、そして、そんな彼女の読書傾向はと言うと。

わたしが求めていたのは存在が信じられる登場人物であり、彼らに何が起こるか好奇心をそそられることだった。ふつうは、人々が恋に落ちたり恋から醒めたりするほうがよかったが、なにかほかのことをやるというなら、それでもべつにかまわなかった。そして、低俗な望みではあるけれど、最後にだれかが「結婚してください」という結末になるのが好きだった。

うわー友だちになりたい。
そう、彼女が「Sweet Tooth」作戦に抜擢されたのはその読書好き故。
彼女が作品を読んで、この人こそはと推薦した小説家ヘイリーが、彼女の助言や手助けを得てみるみる創作意欲をかき立てられ、作品をものにしていく過程はマキューアンの創作過程などを想像させられ興味深い。
そしてその創作の方向がどんどんMI5の望まない方向に発展していくのがまた、ハラハラしつつなかなか面白い。
そして同時に2人の恋の行方も迷走していくという、たまらない展開なのだ。


また本書に登場する大学時代の恋人やMI5の同僚や上司たち男性陣が、また揃いも揃って自分本位で、いい年して楽しそうにスパイごっこをやっているのがなんともバカバカしいったら。
それに対して、安サラリーに耐え、洗面台で小物の洗濯をして、満員電車で通うセリーナのいじらしさときたら。
なぜ彼女は「Sweet Tooth」作戦に失敗したのか。
それはすべて愛ゆえに、と私は思う。
彼女がスパイでありながら、あまりにも小説を愛しすぎていたため、あまりにもその著者を愛しすぎていたため、この作戦は失敗に終わったのだ。


そう、確かに彼女は失敗した…それも手酷く、徹底的に。


ところが読者は、ラスト数ページで著者の用意したどんでん返しに目をみはり、もう一度最初から読み返してしまうだろう。
そして思うに違いない!
「小説家なんて、本当にロクなもんじゃない!!」
あとがきによると、イアン・マキューアンは「すべての小説はスパイ小説であり、すべての作家はスパイである」と発言しているらしい。
そう、最後に読者はこの作品こそが、彼が読者を罠にかけるために用意した愛しい愛おしいSweet Tooth作戦であることを知るのだ。
とびきり甘美で、小説を読む幸せにあふれた作戦であることを。



甘美なる作戦 (新潮クレスト・ブックス)

甘美なる作戦 (新潮クレスト・ブックス)