「荒野の古本屋」 森岡 督行 著

読んでいると、あの時に感じた不思議な「大丈夫」という気持ちを思い出す。


晶文社の「就職しないで生きるには」シリーズの一冊。
著者の森岡督行さんは、大学卒業後、約1年間ほど「社会」と距離を置きながら神保町で散歩と読書にいそしみ、その後、老舗古書店に就職し古書の基本を学びながら修業、やがて独立し現在は写真集など専門に扱う「森岡書店」を営んでいる。
晶文社のこのシリーズとその関連本には、本書をはじめさまざまな小商いやビジネスを題材にした本が並んでいる。
ただ本書は、通常のビジネス本とは違い「明日からすぐ使える!」ような開店や経営のノウハウを直接伝授する本ではない。
哲学的と言うか、生きることと働くことの距離をできるだけ近づけながら生きていこうとすることの苦しさや喜びを語り、自分の立ち位置を確認するために、ときおり読み返したくなるような本だ。


店に通うお客さまに古書に関する無知を叱られ、さまざまなことを教えてもらう修業時代、上司から言われた「わからないことは、わからないと謙虚にいえる姿勢がより大切」という言葉。
茅場町での理想的な物件との遭遇や、買いつけで飛んだプラハ、パリで偶然の出会いで見つけた掘り出し物。
開店直後の苦境、やはり人に助けられながら少しずつ改善していく店の経営。
そして著者自身が今度は別の古書店の開店を手伝い、そこで自分が上司から受けた助言をスタッフに贈る巡り合わせ。
著者が語る言葉は優しく、読んでいると著者が古書と同様に愛する古い建築物にいるような気持ちになる。
なんだか、むかし仕事で出入りした旧丸ビルのことが思い出された。
あそこにもやはり人を包み込むような不思議な空気が流れていたっけ。


本書で著者が神保町の古本屋街を「散歩」していた頃、前後して私もまたその同じ街をさまよっていたことを思い出した。
題名の「荒野の古本屋」は開店後、軌道になるまでの著者の孤独で暗い日々を綴った章の表題だ。
心が荒んでいると世界中のいたる場所が荒野になる。
あの頃、見えない明日と抱えた小さい命の行く末に不安を覚えながら、私も同じく荒野にいた。
このままではいけないと思い、極力外に出た。
東京タワーでも原宿でも良かったのに、なぜそこに通うようになったのかは覚えていないのだけれど、(多分電車の接続の関係かしら)古本屋街に通うようになった。


あの頃、生まれたばかりの子どもを抱え、たくさんの古書店を巡り、時を超えてそこに辿り着いた本たちを眺めた。
多分、私たちの寿命よりも長い時を旅する本たち。
それが一つの本棚に、一つの店に、一つの街に存在している。
なんだかその空間にいて、一瞬だけその旅を共有していると、この世を構成するものの根本を信じていいと思えた。
この子が大人になった時もきっとこの街はある、世界は大丈夫、と思えた。


本書を読んでいると、あの時に感じた不思議な「大丈夫」という気持ちを思い出す。
本、そして漱石の「坑夫」と石炭、祖母の戦争体験や写真集…著者の人生を通底するキーワードがぐるりと回って現在の彼の仕事に繋がっていく流れに、自分の中にある指針に従って生きた者への恩寵みたいなものを感じた。
この本は、荒野の中で、小さな確信を支えに生きていく人たちに勇気を与える本だと思う。


荒野の古本屋 (就職しないで生きるには21)

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