「アラバマ物語」 ハーパー・リー 著

今、私たちの社会は、モッキングバードたちを守ることができているのだろうか。私はモッキングバードを見殺しにしてはいないだろうか。

このところ面倒くさい件にかかりきりで、毎日やきもきしている。
「人って皆いびつだね。そんないびつなものを正方形の小さな箱に無理やり入れようとするからモメるんだよ」
先日頭に来て、そんなことを言う私の言葉に同僚が
「違いますよ。皆、自分がいびつだって思ってないんですよ。自分だけはまともだって。だからモメるんですよ」
と一言。
そうだったのか、私自身もいつの間にか「自分だけはまともだ」という、いびつな人間が陥りがちな思考の罠にとらわれていたようだ。


本書は、1961年度のピューリッツァー賞受賞作品で、以前から読みたいと思っていたのだけれど、きっかけがなくて手が出なかった本。
たまたま書店で作者の評伝が出版されていたのを見て、まずはこちらを読んでみることにした。
結論を先に言うと、「この本はもっともっと早く読んでおくべきだった!絶対」。


時代は1930年代、主人公はスカウトという少女。
彼女は弁護士をしている父アティカスと兄ジェムとともに、アメリカ南部の古い町、メイコームに住んでいる。
母を病気で亡くしたものの、夏になるとやってくる仲間ディルと一緒に、3人は不気味な噂に包まれる隣家の引きこもり男ブーを題材に劇をしたり、近所でいたずらをしたりして遊びまわっている。
けれど成長するに従いスタウトは、身の回りで人種差別や貧富の差や性別による役割の押し付けなどいつの世にもなくならない人の世の矛盾やしがらみに気づきはじめる。


そしてある日、ジェムが「世界で一番善良な人たち」と思っていたメイコームの人々を驚かせる大事件が起こる。
黒人の男性が、町の白人女性を暴行したというのだ。
この事件で、被告人の弁護を引き受けたアティカス。
彼の決断は、町の多くの白人たちを敵に回し、やがて子どもたちを危険に巻き込むことになる。
けれど、その体験を通じてスカウトは、周囲の人々の欺瞞や偽善に、そして思いやりと優しさに気付いていく。


この作品の最大の見どころは陪審員による裁判のシーンだろう。
その法廷の描写は、ジョン・グリシャムのドキドキワクワクのそれよりも、むしろエラリークイーンの「災厄の町」のような地味な、だけどじわじわとくる心理的な駆け引きが主で、どちらかと言うと私の好みはこちら。
アティカスが仕掛けた尋問や弁論によって明らかになっていく真相は、陪審員の下した判決がいずれであったにしても、救いのない切なく哀しいものだった。


どのシーン、どのセリフも素晴らしいのだけれど、忘れられないのは3つ。
まずは暴徒化した人々にスカウトが話しかける場面。
「あら、カニンガムさんじゃない?」
その一言から彼女が自分の息子の同級生だと気づき、暴徒の一人が、そして全員が徐々に落ち着きと人間性を取り戻すシーン。
心の内面をいちいち描写していなくても、かつて子どもだった人なら、子どものまっすぐな言葉に自分を取り戻したことのある人なら、このシーンの素晴らしさが理解できると思う。


次に、反対尋問のあまりの過酷さに耐えきれず裁判所を抜け出し泣いていたディルに、飲んだくれの酔っ払いという評判の悪いある男が声をかけるシーン。
ディルに自分はなぜ泣くのかと問いかけられて彼がこう答える。


「人間がほかの人間にひどい仕打ちをするーーーそしてひどいことだともおもわない、それに泣くのさ。白人が黒人にするひどい仕打ち、黒人も人間だということを考えもしない、その仕打ちに泣くんだよ」


彼の偽悪者ぶりが不思議でたまらないスカウトは言う、「それは正直じゃないわ」。
本筋とはそれるが、私の周りにはこの偽悪者たちがたくさんいるので、ちょっとぐっときてしまった。
この偽悪者(私の周囲では男性が多い)たち、人一倍の優しさやナイーブさを悪(ワル)な言動に隠して周囲を困らせている、結局は他人を傷つけるのが、自分が傷つくのが怖い臆病な人。
嫌いではないのだけれど、私には彼らがこの世の中をちょっとばかりややこしくしているように思える。


そして最後に最も心に残るのは、ある大事件の後、スカウトがアティカスの言葉の正しさを思い知る場面。

アティカスのいったことは正しかった。いつか、人というものは、その人の立場に立って動いて見るまでは、ほんとうのことはわかるものではない、とそういったのだ。

スカウトはある人の視点から自分たちや町を眺め、彼の身になって想像してみることによって、彼の淋しさを、優しさを、勇気を理解する。
人はみないびつで、そのためにあちこちで衝突することはあるのだけれど、その身になって想像してみることはできる。
誰もがそうできれば、争いごとは減るだろうに。


最後まで読むと、本書の不思議な原題「TO KILL A MOCKINGBIRD」の意味が分かったような気がした。

「モッキングバードってのはね、私たちを楽しませようと音楽をきかせてくれるほかには、なんにもしない。野菜畑を荒らすこともしなければ、とうもろこしの納屋に巣をかけるわけでもない。ただもうセイかぎりコンかぎり歌ってくれるだけの鳥だからね。ーーーモッキングバードを殺すのが罪だっていうのは、そこなのよ」


おそらくそれは、人がどうしても守らなければならない規範。
アティカスが弁護を引き受けたのは、その規範を守らなければ自分の良心にもとると考えたから。
今、私たちの社会は、モッキングバードたちを守ることができているのだろうか。
私はモッキングバードを見殺しにしてはいないだろうか。


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