「HHhH」(プラハ 1942年) ローラン・ビネ 著

ナチスの残虐をありのままに書き記すために。「忘れられたヒーローたち」に敬意を表するために。そして私たちがより賢い選択ができるように。著者は独特の語り口で、本書を書き上げた。そう思う。


本書のテーマは、生きていればヒトラーの後継者になったと言われる人物、ラインハルト・ハイドリヒの暗殺事件だ。
ラインハルト・ハイドリヒはナチスの国家保安本部(RSHA)の初代長官、そしてゲシュタポ強制収容所を指揮下においたハインリヒ・ヒムラーの有能な右腕として知られている。
題名の「HHhH」は「ヒムラーの頭脳はハイドリヒ」という言葉のドイツ語の頭文字をとったもの。
ヒムラーの名の下に行われた様々な陰謀、暗殺、そしてホロコーストへと繋がる「ユダヤ人最終解決問題」の陰にはこのハイドリヒがいたとされている。


実際に起こった事件、「史実」について書くことは難しい。
どんなに資料を集めても、その裏付けのために更なる資料を集めても、誰もこれが真実だと保証してはくれない。
自ら「細部へのこだわり症」と著者が言っているくらいだから、完璧を求めた著者が自分を追い詰めてどれほど苦しい思いをしたかは想像に難くない。
そして、明らかにされた「事実」のみを綴るのか、それとも開き直って、事実と事実の隙間を架空の会話で埋めて、「小説」としてそれらしい虚構の世界を創り上げるのか。
幾度も、その間で著者は迷っている。


しかし、なぜ、著者はそれほどまでに事実であることにこだわるのか。
ある夜、歴史好きの友人に本書の原稿を見せた著者は、友人がそれを彼の創作だと思ったことに傷つき、大きな声で弁明する。
「そうじゃない、すべて事実なんだよ!」


もちろん、創作ではない!そもそもナチズムに関して何かの創作をして、どんな意味があるのだ?



著者のこだわりの大きな理由は上記の一言に尽きると思う。
彼はこの物語を「小説」とはしなかった。
ナチスの残虐を、ハインリヒ・ラインハルトの所業を創作にしてしまいたくなかった、という彼の思いがそこにある。


その結果、資料に基づく純然たる史実と、自分の想像、あるいは創造した部分をしっかり書き分けつつ、ある時には後日明らかになった事実を突然混入させ、ある時は全く本筋とは無関係のように思える独り言のようなささやきを挿入し、著者は本書を独特なリズムで最後まで語りあげるのだ。


そして、著者が執拗にかつ厳密に「事実」にこだわった理由はもう1つある。
著者は暗殺実行犯の2人の若者はもちろん、彼らを助けたプラハの庶民たち、歴史の墓地に眠る「忘れられたヒーロー」たちに、その勇敢な行為に、最大級の敬意を表したいと思っているのではないか。


死者は死んでいるから、今さら敬意を払われたって、その当人には何の意味もない。でも、僕ら生きている人間にとっては、それはかなり大きな意味がある。個人の遺徳を偲ぶ記録は、敬意を表するべき当の本人には何の役にも立たないが、それを使う人には大い役に立つ。それによって僕は奮い立ち、それによって自分を慰める。



ナチス戦争犯罪について書かれた本を読むたび、いつも私の想像力は、私にこんな質問を突きつける。


レジスタンスの兵士が自宅に逃げ込んで来た時、私は彼らを最後まで守り切ることが出来るのか?
銃を自分の子供に向けられて、仲間を裏切らずにいられるのか?
いざという時に口を割らないために、隠していた毒薬を服することができるのか?
被差別民の少女が逃げ込んで来たら、私は最後まで匿ってあげることができるのか?


答えはどれも「No」だ。
私は知っている。
自分がそこまで賢く、強くないことを。
時と場合によっては、差別する側にも虐殺を行う側にさえも加担してしまえる、伊丹万作氏が「戦争責任者の問題」で言ったところの、戦争が終わった途端に「だまされた」と声を上げる凡庸な人間の一人であるということを。


 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
〜「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房 「戦争責任者の問題」より


ナチスやハインリヒだけが特別な「悪」なのではない。
黙って見ていた者、無批判に受け入れてしまった者、勇気を持てなかった者の中にも、等しく悪がある。


しかし誰もがその悪に染まったわけではない。
半ば忘れられたヒーローたちがいるじゃないか。
実行犯以外のパラシュート部隊の隊員たち、レジスタンス運動に関わったモラヴェッツ家の人々、ファフェク家の人々、彼らに手を貸した人たち…。
凡庸な私たちにも、より良きものになれる希望があるのかも知れない。
そう自分に言い聞かせるために、奮い立つために、著者は本書が「事実」であることに、勇気ある人々が実在の人物であるということに、とことんこだわったのではないか。
そう思う。


HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)