「SOSの猿」 伊坂幸太郎 著
ある件でトラブルに巻き込まれた方のお手伝いをしていて、最終的に解決をみた。
お礼に来られたその方が、突然「これが解決したのも、◯◯さまのおかげです。良かったら、一緒に拝んでもらえませんか?」 と言われた。
◯◯は、よくきこえなかったが、何かの名前のようだ。
トラブルが解決したのは、どう考えても本人の努力と私たちの援助の結果で、◯◯さまは1度も登場しなかったはずだが、本人はともかく、私も拝むのか?この場で?
頭は一瞬のうちに目まぐるしく回転し、 拒否の言葉が喉元に上がってきたが、口は「はい」と答えていた。
私とその方、2人で見えない◯◯さまに手を合わせ、お礼を述べた。
後で同僚からは 「かなり変な光景だった」と言われたが、なんだか不思議と気持ちはしっくりしていた。
これで良かったと。
なぜそんなことをしたのかと上司に聞かれたが、あえて言葉にすれば、「そうしなければ、物語が終わらないと思えたから」としか答えられない。
2人で手を合わせたあとのAさんの笑顔。
そう、物語の終わりはこうでなくては。
Aさんの中では因果応報、すべてが意味あるものとして完結したのだから。
人は自分の物語を生きている。
芥川龍之介の「藪の中」でも、ある事件を語る人の数だけ物語があった。
私は因果応報の話が好きだ。
この世に起こる出来事には必ず原因がある、そう思いたいのかもしれない。
そうでなければ、嫌なことを我慢して善いことをしなさい、努力をしなさいと子供達に言えなくなってしまう。
因果応報論は真面目に生きる人の明日への約束だ。
しかし、東日本大震災のような大きな災いが起こった時、私は考える。
なぜ東北地方だったのか。
なぜあの人は亡くなって、あの人は生き残ったのか。
なぜあの人は家を失い子を失い、あの人の家や子は無事だったのか。
東北の人々ばかりではない。
私たち日本人もまた(もちろん近隣諸国の人も)、産地をいちいち確認することなくものを食べる毎日を失ってしまった。
あの災害で起こった出来事のほとんどは因果応報の論理にははまるとは思えない出来事だった。
不条理、不公平、不平等。
そこには因果応報の法則を守る要素はない。
真面目に生きることのバカバカしさ、家族や人間関係を大切にすることの虚しさ。
物語が欲しい。
この不条理、不公平、不平等な出来事を説明してくれるような。
この世の不幸を意味のあるものにするような。
私も求めているのかも知れない。
SOSに応える猿を。
今の不条理を、未来が、物語が、意味のあるものに変えてくれることを。
「救われるでしょ?物語を想像するのは、救いにもなるんです」
- 作者: 伊坂幸太郎
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
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