「人質の朗読会」 小川洋子 著

その朗読は何かに捧げる供物。生きていたことの証。ここにいない人の木霊。


本を読み終えて、よく考える。
あの子はこれからどうするんだろう?
あの2人はこの後、どうなるんだろう?
時には哀しい結末に耐えきれず、勝手にハッピーエンドに上書きしたりもする。
登場人物の「その後」は、読書の余韻を楽しむためには欠かせない要素だ。

ところが、この本で読者が読むのは、もうこの世にはいない人々による朗読会。
想像をしようにも、彼らに「その後」はないことが冒頭から明らかにされている。
彼らは地球の裏側の何処かの国で、反政府ゲリラに拉致され、犯人の仕掛けたダイナマイトの爆発により全員死亡したのだ。
ただ1人、最後に、彼らの朗読を聞いていた監視役の男性が朗読するが、それもまた喪失の哀しみから逃れるものではない。

彼らの朗読。
どれも、優しくて、ささやかな温もりを感じる話ばかりだ。
だけど、それは、透明で、ひそやかで、ひんやりとしている。
まるで、あの世から聞こえてくるように。

ふと気付く。
この朗読会で朗読されるお話、どの話にも人質の生活の現在と、日本に帰る未来について語る言葉がない。
なぜこの国にきたのか、残された家族に対してなにを思うのか、それに対する言及もない。
彼らは拍手でそれぞれの話を迎え、拍手で送り出す。
批評し合うわけでもなく、褒め称えるわけでもない。
朗読の最後に朗読者の職業と年齢、旅の目的が記されている。
唯一そこにあるささやかな現実との繋がり。
薄い存在感。

語る者ではなく、語られる物語こそ

スティーブン・キングのこの言葉が、なぜか頭に浮かんだ。

そうだ。
彼らはもしかしたら、知っていたのではないだろうか。
自分たちが生きてそれぞれの生活の場に戻ることがないことを。
そう、彼らの語る物語は死を覚悟した者たちの、何かに捧げる大切な宝物、供物なのだ。

人質の朗読会

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