「情熱の階段」 濃野 平 著

単身スペインに渡り、徒手空拳で挑む最上級の闘牛士、マタドール・デ・ピカドールへの道。今も続く著者の15年に及ぶ渾身の戦い。ここにあるのは、あきらめないことの苦しみと喜び。

学生時代、音楽にのめり込む数年間を過ごした。
周りには同じ年頃、同じ学校、同じ時間をかけて練習を重ねる仲間たち。
その中に、まるで光が灯っているように輝いて見える人がいた。
同じB♭音を吹いても、同じフレーズを奏でても、耳がその人の音を追い、目がその人を探してしまう。
ところが、数年後、その人はあっさり音楽を捨ててしまった。
誰もがうらやむような素晴らしい才能を神様からもらっていたと思っていたのに。
あの音を聞くことができなくなったことが無性に寂しかった。


この本の著者、濃野平氏は15年前、28才で単身スペインに渡る。
彼はこの時、一つの決心を胸に秘めていた。
スペインで闘牛士になるという決心を。

なんのつてもあてもない、スペイン語もろくに喋ることは出来ない。
どこに行けば闘牛士になれるのか、それすらも分からないまま、彼はかの地に渡り、偶然観戦した闘牛場近くのバルで闘牛士らしき男性たちに辞書を片手に日本語で必死に訴える。
闘牛士になりたい、闘牛を教えて欲しい!と。

しかし、彼らの反応は芳しくない。
意気消沈して店を出る著者、次のあてがあるわけではなく、闘牛学校があるというセビリアにでも行くしかない…。
しかしその背後から、1人の若者が息せき切って駆け寄り、こう言う。
セビリアへ行くなよ!ここに残るんだ。このウエルバに!」
これが著者の闘牛士人生の始まりだった。

スペインのプロ闘牛士は国家資格だ。
最下級の満二歳牛の仕留め士のノビジェロ・シン・ピカドール、満三歳牛の仕留め士ノビジェロ・コン・ピカドール、成牛である満四歳以上の牡牛を仕留める最高位のマタドール・デ・ピカドールがあり、一定の条件を満たした者がスペイン内務省に申請し免許を交付してもらう。
2010年度の闘牛シーズンにおいてマタドール・デ・トロスとして1度でも試合出場機会のあった者(試合に出るだけでも大変なのだが)は209名、同じくノビジェロ・コン・ピカドールが162名、ノビジェロ・シン・ピカドールに登録しているのが1931名、そのうち純粋な闘牛収入だけで生計を立てられる闘牛士は、数十名だという。

あとの闘牛士はどうやって生計を立てているのか。
裕福な家庭の子弟(マタドール・デ・ピカドールの息子なども少なくない)などはよいが、大半の者はアルバイトをしたり、闘牛士の助手に転職したり。
また闘牛士は本物の牛を練習に使わなければ訓練にならない。
しかし牛は1度闘牛士の相手をしてしまうと人間の動きを覚えてしまうため、一回きりの練習に大金をはたいて本物の牛を購入しなければならない。
資金を持たない闘牛士たちは夜の牧場に忍び込んだりするという。

著者も資金難で苦労する。
練習もできず、試合にも出られず、いっそ辞めてしまおうと何度も何度も考える。
だけど、彼は15年間、マタドール・デ・ピカドールに続く階段を登ることをやめない。

才能が神様のくれるギフトなのだとしたら、どうしてギフトをもらった人はこんなに苦しい思いをするのか。
神様はくれる才能は、おそらく、贈り物ではなく、問いかけなのだ。
「その才能で、あなたはこの世でなにを成し遂げるのですか?やり通す覚悟がありますか?」

そしてその問いかけに、少数ながら全力で応える人がいる。
なんのために。
著者も何度も自問する。
そして彼が得た答えは
「自分自身で納得のいくような、後悔のない生き方がしたいから」
「自分の望む生き方をして、自分なりの幸福感や充実感を得たかったから」

おそらく、誰もが皆、何かが足りないのだ。

それは才能だったり、時間だったり、出会いだったり、資金だったり、チャンスだったり…。
足りないという一点をもって私たちは平等なのだ。
だけど、足りないものを補おうとあがく情熱、あがき続ける執念。
みのり多き人生は、その情熱と執念の賜物だ。

他人が応えるのを待つのは卑怯だ。
他人ではない、私が私として生まれた意味を問い続けること、足らないものの中で泥だらけであがくこと、その苦しみと喜び。

この本はその渦に飛び込む勇気を与えてくれる。

情熱の階段 日本人闘牛士、たった一人の挑戦

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