「痕跡本のすすめ」 【古書 五っ葉文庫】 古沢和宏 著

書き込み、挟み込み、傷、よごれ…前の持ち主の痕跡の残された「痕跡本」と、その痕跡の背後に広がる物語。ゴミ同然の無機質な存在から、著者によって一転、かけがえない存在となった幸福な本たちの紹介本。


中学生の頃、A・クリスティにはまり、毎日のように図書館に通っていた。
その日も、図書館で借りたある作品を開いた瞬間、こんな言葉が飛び込んできた。
 
「犯人は◯◯だ」  
 
その後、私は極力、表紙とタイトルページを一緒にめくって読むことにした。
ところが、ある日、図書館で借りた本を、いつも通りに表紙とタイトルページを慎重にめくったら、登場人物の紹介欄で、ある人物の名前の上に赤い丸が記されていた…。

私にとって「痕跡本」の思い出は暗く、苦い。
正直、読書の楽しみを奪われた思い出は、犯罪被害に遭ったぐらいのショックで、今でもその時の怒りを胸に蘇らせることが出来る。
おかげで、今も古本を購入するのは躊躇しているぐらいだ。

しかし、私が出会った「痕跡本」は実は「痕跡本」の世界では下の下。
この本で語られている痕跡は、このような悪質な痕跡ではない。
それは、本とその持ち主の出会いの証拠、本が持ち主の心を揺さぶった感動の記録なのだ。

著者は愛知県で古本屋を営む男性。
そして長年「痕跡本」を集める蒐集家でもある。
ここで言う「痕跡本」という言葉は、実は著者の造語だそうで、著者の定義によると「痕跡本」とは

『古本の中に、前の持ち主の「痕跡」が残された本』
であり、「痕跡」の例をあげると、
『本文のとある部分に線が引かれていたり、感想が書かれていたり、といった書き込み』
『突然ページの間からひらりと現れる手紙やメモ、あるいはレシートなど、前の持ち主の生活模様が見えてくるような、挟み込み。』
『傷、よごれ、ヤケ』

であるという。
このような痕跡は古本の価値を貶めこそすれ、決して需要を増やしはしないはずだが、著者はこれらの痕跡にあえて価値を認め、そこに物語を読み込む。
この物語が魅力的でたまらない。
たとえ、それが、おそらくは妄想の産物であっても。

ホラー漫画に無数に打たれた針の跡。
タイトルページに上下逆さまに書かれたスパゲッティナポリタンの詳細なレシピ。
詩集に何ページにも渡って書かれる自作俳句の推敲の跡。
名古屋から京都までページが進むにつれて進行していく駅名の書き込み。
司馬遼太郎氏を偲んで書かれた文章の枠外にポツリとかかれた「負けたくない」の一言。
文学全集に挟み込まれたカメラの保証書に記された亡き夫との思い出の一句。
書き込みと線引きと汚れと破れでボロボロの、何回読み返したんかい!と言いたくなるエンゲルス「空想から科学へ」。

著者のコレクションに刻まれた個性的な痕跡の数々…。
どれもその痕跡から、様々な人々の営みと、持ち主の人生が確かにそこにあったことを感じさせる。
無機質な本という存在が、読み手を得ることで、有機的な存在に変化する、その価値観の変転が「痕跡本」の醍醐味だ。
そして著者が定めた「痕跡本」のコレクターとしてのルールの1つが「持ち主を探さないこと」。
「痕跡本」は持ち主が分からなくとも、いやむしろ分からないからこそ、妄想を拡大するのだ。

また著者は最近、「痕跡本」が少なくなったことを嘆き、その原因を某古本チェーン店の台頭と関係があるのではないかと指摘する。
自分の本が、金銭に交換可能となった時、それはただの消費財に化してしまうのではないか。
高く売りたければ、なるだけ自分の痕跡は消してきれいに読もうとする。
そうすることで、読み手と本との距離は遠くなり、やっと手に入れた大切さも、世界でたった一つという思い入れも、かけがえなさも失われてしまうのではないか。
やがて電子書籍が主流になれば、ますます本という存在が変わっていくだろう…。
「痕跡本」は私にとっては失われゆく「私的な幸福な読書」の象徴のようだ。

さて、私の一番のお気に入りの痕跡本エピソードは、ユーゴーの「ああ無情」の中に挟まれていた…この先は読んでからのお楽しみ。

そう言えば、先日行きつけの図書館の司書さんから声をかけられた。
「会えて良かった!これ、返却本の中に入ってたわよ!」
と、手渡されたのは一枚の紙。
それはその返却本を読んだ家族のテスト用紙だった。
まさに自分が痛恨の挟み込み痕跡を残すところだったのだ…。

痕跡本のすすめ

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