「コールドケース 未解決事件」 マイケル・カプーゾ著

アメリカでは3件のうち1件の殺人事件が未解決であるという。それらの未解決事件を解決に導くヴィドックソサエティという私的諮問機関。その中心となる3人のメンバーの活躍と彼らが明らかにした死者達の声。
 
 
600ページ以上の単行本を一気読み。
手に汗握る展開に、久しぶりに他の本を並行読書をする気にもなれなかった。
 
ページを繰るごとに、かの国の暗部をあらわにするような事件が次々に現れる。
殺人事件につぐ殺人事件。
そして、それはいずれも異常な状況、異常な手段、そして異常な犯人によるもの。
いや、本来、人が人を殺すことというのは、いずれにしても異常事態であるのだ。
そして未解決事件、すなわち事件が解決しないということは、その異常事態がずっと続くということ。
遺族や関係者はその間、その事件に囚われ、時には自分を責め続け、出口を探して苦しみ続けるのだ。
 
そんな人々のために立ちあがるのが、犯罪捜査のプロ達が捜査機関に助言を行う諮問機関〈ヴィドックソサエティ〉だ。
 
名前の由来は、世界初の探偵で19世紀のパリで活躍した前科者のフランス人、ヴィドックにちなむ。
そのヴィドックソサエティの創立メンバーであり、中心人物である3人の「探偵」たち。
この本はこの3人のメンバーを中心に描かれる。
 
この3人がすごい。
1人はこのヴィドックソサエティ創立者で元FBI特別捜査官であり、ポリグラフ嘘発見器)検査と尋問の世界的権威であるウィリアム・リン・フライシャー。
そして2人目は約20年間凶悪なサイコパス達との面談を繰り返してきた犯罪心理学者であり、「現代のジャーロック・ホームズ」と称される(本人はこの二つ名にうんざりしている)リチャード・ウォルター。
最後は被害者の骨や被疑者の数十年前の写真から天啓を得、顔形を復元し事件を解決に導く法医学アーティスト(初耳でした)、フランク・ベンダー。
 
この本では、この3人が時にぶつかり、時に協力しながら、無念の死者達の声を再現していくその過程を、悲惨な事件の経過を追う形で描いている。
 
それにしても3人のキャラクター、実に見事に立っている。
3人の1人ずつがそれぞれ1本の映画になりそうな個性とエピソードに満ち溢れている。
まさに三銃士。
そして彼らはそれぞれの正義に従い、時には怒り狂い、時には哀しみにとらわれながら、社会正義の実現というものを強く、非常に強く求め続ける。
それは数十年前の殺人事件であっても諦めなきれないほどに。執拗に。何かにとりつかれたように。
 
興味深かったのは、この三銃士たちがそれぞれ父親との間に確執を抱えていたということ。
彼らの少年時代は心通わない父親との戦いの時代でもあった。
もしかしたら、彼らの少年時代の「強く正しい父」の不在こそが、強烈な「社会的正義」の実現という欲求に結びついているのではないか、などと穿った見方もしてしまう。
 
そんな彼らも悲惨な事件、凶悪な犯罪者たちに立ち向かう中で、深い挫折感や無力感に苛まされる。
時には、事件に深くコミットメントしてしまった結果、追いかけている犯人の暗部に自分自身が接近し過ぎてしまい、そのことで実は自分の中の何かが汚れ傷つくこともある。
《怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。》  
本書にも引用されていたが、私も何度もこのニーチェの言葉を思い出していた。 
 
彼らがバランス精神を損なうことなく仕事をしているということに驚くと共に、その彼らの知識やノウハウが誰かに継承することの困難についても考えさせられる。
ウォルターが後継者にと考えていた候補者の1人が言った「私には妻も子もいます。私は正常な感覚と、人生に対する純真な気持ちを持っていたいのです。あなたはそれを破壊しようとしています。私には無理です」という言葉は、人の心の暗い深淵に引き込まれないためにどれほどの意志の強さを必要とするか、そして1人の天才の知識やノウハウを継承することが、いかに難しいことかを考えさせられる。

しかし、三銃士、三位一体、三聖、三権分立、光の三原色、・・・
3、という数字はバランスと安定の数字。
 まるで神話の登場人物のように、彼ら3人の活躍はひとときこの世に正義はあると信じさせてくれる。
人がどこまで残酷なことが出来るのか限度が見えない現代で、彼らの存在が私たちにとって貴重なのは、そのためなのだ。
 


ここ数年、新人育成を任されることが増えている。
まあ、勤続年数が20年近くもなっているので、致し方なしと諦め、引き受けている。
一定期間、いっしょに仕事をした後、当然評価を下さねばならないのだが、なかなかこれが難しい。
人間というのは、かけっこと同じで、短距離走にむいている人もいれば長距離走に向いている人もいる。走り幅跳びが好きな人もいれば棒高跳びが好きな人もいる。
例えば、槍投げが得意な私が長距離走が向いている人を的確に評価出来るのか?
いやいや、とりあえずやるしかないので、槍投げ屋なりのノウハウを伝えるべく努力している。

数ヶ月前にも1人、引き受けることになった。
しかし、この方が結構難しいのだ。
一緒に仕事をしている同僚とも話すのだが、「いやーホントに善い人なんだけどね」の後に言葉が続かない。
真面目で勉強家、どのような仕事にも熱心に取り組んでいる。
なのに、仕事が滞ってしまう。
相談者とも相手方ともうまくコミュニケーションが取れない。
挙げ句の果てにどうやら、精神的に参ってしまったらしく、毎日目を腫らして出勤するようになってしまった。

仕方なく、話をしたのだが、彼女は言う。
「私、今までこの世にこんなひどい人たちがいるとは思いませんでした」
私も返す。
「そうだね〜。時々ひどい相手方も出てくるよね」
「いえ、違います。相手方がひどいのは覚悟していました。だけど、相談にくる人もひどいですよ。甘えてますよね。人任せで自分勝手なことを言う人ばかり」
「そうかな?人間って誰でもそんなところがあるんじゃないの?彼らのどこかに共感することはない?」
「ありませんよ!私の周りにはあんな人いませんよ」
「それはたまたま、そんな面を見なくて済んでいるだけではないかな?」
「いえ、そんなことはありません。○○さんはあんまり酷い人とばかり会っていて感覚が狂っているんじゃないですか?」

なるほど。私はニーチェの言う《深淵》を覗き過ぎたようだ。
私には相談室の机の向かいに座る人も交渉をする相手方も、皆、自分によく似た人だと思う。
善人に囲まれている彼女には、人種も国も違う人のように思われるんだろう。
私には、時折、彼らは鏡に映る自分を見るような気分になるほどだというのに。

結局、たどり着いたのは「どうやら私達の仕事は善い人には向いていないらしい」という結論だった。いやまったく身もフタもない。


未解決事件(コールド・ケース)―死者の声を甦らせる者たち

未解決事件(コールド・ケース)―死者の声を甦らせる者たち