「犯罪」フェルディナント・フォン・シーラッハ著

静かな、静かな筆致で数々の「犯罪」とそれに関わる人々を描く。あとがきも残さない作者の意図をどうしても探り出したくなるほど、余韻に溢れた切ない物語。

なんて静かな、美しい物語だろう。
扱われた犯罪はどれも血なまぐさく悲惨な事件なのに、それが書かれた文章は決してフルオーケストラの仰々しい音楽ではなく、例えば誰もいない部屋でピアニストがショパンの「雨だれ」を弾いているような、そんなシンプルな文章。

しかしこの作品を読み進めるうち、次第に私が感じ始めたのは、実は作者の「熱さ」だ。
これ以上踏み込んで書いてしまうと自らの感情の海におぼれそうになる、この作品を貫く冷静さも当事者との間においた距離感も、実は作者が作った防波堤なのではないか。文章の底に流れる強い緊張感はそんな推察にますます拍車をかける。
そのアンバランス。

ふと気づくと、人のもめごとに直接、間接的に関わるようになって10年以上の月日が経った。
同じようにもめごとに関わる仕事をしていても、より一層正義感に燃えて熱くなる人、饒舌になる人、いっそ厭世的になってしまう人、そして燃え尽きてしまう人…。現場にはさまざまな反応を見せる人がいる。

数年前の私を知っている人と、数ヶ月前から改めて同じ場所で仕事をすることになった。
しばらくしてこう言われた。
「大人しくなったね。以前は周囲のものを壊さんばかりに感情を爆発させていたのに」

はい、仰るとおりです。私、最初の数年間、もめごとにのめり込めばのめり込むほど、感情を爆発させていました。実際にアタマにきてものを壊したことあります。自分の身体を壊したこともあります。人に当り散らしたこともあります。迷惑な話ですね。でも、それは一方で私のエネルギー源でもありました。

「もしかしたら仕事に飽きたんじゃないの?」
心配そうに顔を覗き込む同僚の言葉に、ずっと自問自答してきた。
言葉少なくなり、感情を表に出すことが少なくなってきたのは、もしかしたら私が何かを失ってしまったからなんだろうか。これから先、やっていけるのかしら。

この作品を読んで、その問いに自分ながらの回答が見えた気がする。

なぜ作者はあえてこんなに冷静な筆致で語るのか。
作者はくどいほどに、犯罪そのものよりも、登場人物の生きてきた軌跡にページを割く。
もちろん全てが実話のわけはない。しかし作品を読めば、どの登場人物も、加害者も被害者も皆、犯罪が起こるまでの人生を与えられた環境の中で確かにそれなりに一生懸命生きていた、そう描かれている。その実在を感じられる。
それがある時、犯罪という分岐点で大きく道を外れてしまう。

犯罪そのものは一瞬だ。だけど、彼らはその犯罪に犯すために生きてきたわけじゃない。
そしてその犯罪の後も、命ある者は生き続けていかなければならないのだ。
作者があえて冷静に距離感をおいて彼らの物語を語ったのは、これらの犯罪に関わり命を落とした人、あるいは、これからも生きていく人に対する深い敬意の顕れではないだろうか。
誰かのことを思いながら話を描いているからこそ、彼らに敬意を感じているからこそ、このような熱い激しい物語を、このように静かな美しい文章で語ることができるのではないか。
そして彼らの運命への恨み、後悔、喜び、彼らの溢れる思いを知っているからこそ、あえて「犯罪」というシンプルな題名を選んだのではないか。

あとがきも残さない作者はなにも答えてはくれないけれど。

少なくとも、私が自分が出会った人々を、出会った出来事を思い出した時、万感の思いや溢れる言葉の前に無口になってしまう理由はそれなのだと思う。

犯罪

犯罪