自分で選ぶということ

「あなたはどうしたいのですか?」
よくその言葉を使う。
もめごとを解決するためにはなによりその人の意思がどこを向いているのか知らないといけないから最初の段階でそこをはっきりさせる。
最初から『こうして欲しい』と意思表示をしてやってくる人もいる。
そういう人は解決が早い。
自分の求めているものがはっきりしているので、枝葉末節をバッサリと切り、目的地へと最短距離で突き進んでいく。


もめごとの解決には結構無駄が多い。
雑誌や本、ネットにはいろんな情報が氾濫し、他人の体験談が溢れている。
それらに目を奪われ、迷ったり、疑ったりする。また終点にたどり着くまでそこがどんなところか予想も出来ないことが多い。
人はその無駄の前に立ちすくんでしまったり、面倒になったりするのだろう。


だから「あなたはどうしたいのですか?」のイントネーションでは、特に「あなたは」を強く言う。
どうしたいのかは人それぞれ、人の数だけ選択肢はある。それらをすべて検討するつもりはない。
その人の望む選択肢が知りたいのだ。
実にシンプルだと思うのだが、しかし、その言葉に、うろたえてしまう人がいる。
自分がどうしたいのか決めないまま、相談に来ているのだ。漠然と「解決してよかったね」というイメージだけを持って座っている。誰かが自分のもめごとを解決するのを待っている。
そのような場合、「解決」のイメージを喚起するために、試しにいくつかの選択肢を示してみる。それぞれの予想解決率を話してみたりもする。
そして聞いてみる。
「あなたはどうしたいのですか?」
それでも、こう言われることは多い。
「どうしたらいいと思いますか?」
もめごとに関わる仕事をしてきて10年以上が経ち、「怖いものはないでしょう?」と聞かれることもあるが、本当はこの瞬間が怖い。
よいこらせっと大きな荷物を無理やり背中に乗せられた気分になるからだ。
「それはあなたが決めること。人が決めることではないんだよ」
と慌てて荷物を返そうとするのだが、すかさず「私決められないんです。あなたが決めてくれたらそれに従います。文句なんて言いません」と追い打ちをかけられる。
追い詰めないで〜と叫びたくなる。恐怖の瞬間だ。


以前、尊敬する先輩が、なにかのおりに呟いた言葉が忘れられない。
「全ては生き方の問題だよ」
この言葉は、私が仕事に向きあう折々に時々私の心の奥底からぽっかりと浮かび上がってくる。
誰かに自分の心のわだかまりを、悔しさを、それらを解消し誇りを取り戻す喜びを、全て委ねてしまって、それでいいのだろうか?
それも生き方の問題だと肩をすくめて委ねられる強さを私が持たなければならないのだろうか?
そういう生き方もあるさ、と受け入れなければならないのだろうか。
同僚にそんなわだかまりを打ち明けた時、こう言われた。
「みんながみんな、あなたのように強い人ではないんだよ」
私に言わせれば、人に平気で人生の大事な選択肢を委ねる人の方がよっぽど強いと思うのだけど。


分かっている。それでもそういう生き方を選ぶ人はいるのだ。
だけど、私はそれでも、願わずにはいられない。
恐れないで。自分のために選んで。