人に関わる怖さについて

先日、ある女性が私に、息子に尽くしてきた物語を聞かせてくれた。
これまでの数十年間、お金も愛情もすべて、長男である息子に出し続けて来たのだ、と涙ながらに語った。
彼女は生きることのむなしさと、かけた愛情が期待した通りの形では還ってこないことを私に訴えたが、しかし息子への愛情は変わらず、すべては愛情から来る愚痴、或る意味、私にはのろけのようにも感じられた。
彼女の問題を解決するためには、彼を動かさなければならないが、彼女を通じて呼びかけても、彼はなかなか動かなかった。


ある時、彼女の物語が一変した。
ある日やってきた彼女は、これまでの数十年間、私は息子に搾取されてきた、と語り始めたのだ。
そして愛情をこめて息子のことを語っていたその口が、自分の人生を食い物にしてきた息子への憎しみと蔑みの言葉を語り始めたのだ。
きっかけは、精神衛生面の相談を受けた時からだったろうか。
「専門家のところに相談に行く」と言っていた彼女が、その帰りに報告に来て「私と息子は『共依存関係にあるから変えなければならない』と言われたんです」と私に言った。
共依存って?」
と問いかけると、彼女はそれを語った人の語り口を思い出すように宙を見て
「私が息子をだめにして、息子が私をだめにしてきた、ってことらしいですよ」
そしてその後から、彼女は「息子に搾取されてきた人生」について語り始めたのだ。それは息子に尽くしてきたと語る言葉より、恨みや後悔が圧倒的に多かった。
その物語はまだ借り物のように、彼女の口になじんでいなくて、小難しい心理用語や毒々しい非難の言葉が私にはむしろ痛ましく聞こえた。


私の仕事の目的は、もめごとを解決することで、その過程でカウンセリング的な役割を担う立場になることはある。また、もめごとが解決した結果、絡み合っていた人間関係がスムーズになるという思わぬ副産物が発生することもある。
しかし私はあくまでも、もめごとを解決すること、それを自分の仕事の第一の目標に立てている。副産物を目的にした途端、自分が立っている足場が不安定になる気がするからだ。
決して副産物の方を目的としないことが、私のもめごと解決ルールの1つだ。


私は、自分の仕事を尊重して欲しいと思うからこそ、他の分野の専門家というものを尊重している。
しかし、今回の専門家の対応については疑問を感じる。
共依存、という言葉は私も知っているし、DVなどの問題に対して加害者と被害者との関係をあらわす際にこの言葉が頻繁に使われていることも知っている。
いや、正直に言うと、「頻繁に使われすぎている」という印象を持っていた。
共依存関係にある』と断言をした専門家が何をどう判断してそう言ったのかは分からない。
ただ、人が何十年もそれを頼りに生きてきた物語が、たった一言で変わることがある。
専門家はなんのために過去の「物語」を共依存という言葉で全否定する必要があるのか?
共依存関係だったのは2人にとって、その関係がその時に必要な関係だったからだ、とは言えないだろうか?
変えられない過去だからこそ、それは肯定してあげられないのだろうか。


私がカウンセリング的な立場で関わることを避けている理由の一つが、私が無意識に、または恣意的に人の物語を変える可能性を否定できないからだ。
彼女が出会った専門家は、人がそれによって生かされてきた物語の大きさや大切さを認識していたのだろうか?たった1度の面接でそれを壊してしまう怖さを感じていただろうか。


先日、彼女の息子が後日私のところに怒鳴り込んできた。彼女が変わった原因は私とのかかわりにあると勘違いをしたらしい。
彼は、なんと、彼女に虐待されているのだと訴えた。「お前のせいで私は人生を無駄遣いしてきた!」と罵られるらしい。60代の母親に虐待される30代後半の息子。
ちょっと滑稽で笑ってしまったが、私は動き出した彼が経済的な問題を解決するお手伝いをさせてもらった。・・・そういう意味では、専門家が彼女をたきつけたのは正解だったのかも知れない。
やっと仕事が決まったよ、と彼から連絡が入った日、「息子が口をきいてくれなくなった」と寂しそうな彼女からの電話が入った。
少しづつ、少しづつ、大好きだった人が大嫌いな人になって、そしてまた環境が変わって、2人が次の新しい関係を築くことが出来るようになりますように、希望の物語を語ることが出来るようにと心の中で祈った。