嘘と苦しみを消化する装置について

最近、キネシクスという技術を駆使して殺人犯などを追い詰める捜査官を主人公にした小説を読んだ。
キネシクスとは「容疑者や証人のボディランゲージや言葉遣いを観察し、分析する科学」だと言う。
このキネシクスを使えば、容疑者の嘘や本心が読めるというのだ。
もしも自分がもめごとに関わり、当事者と毎日のように対面する仕事をする前であったら、眉つばものだと感じただろう。
けれど今は私も、実際に人と対面する仕事に従事する人は、誰しも意識または無意識に、そして多かれ少なかれ、このような技術を駆使して、騙されることに対抗していると確信している。
そう、確かに大部分の「嘘」は、その技術で見破ることが出来る。


しかしその技術では見破ることが出来ない種類の「嘘」もある。


嘘には3種類あると思う。


1つ目は、明らかに本人もそれが嘘であることを認識しつつ、口にする嘘。
「これに投資すれば、絶対に、儲かりますよ(もちろんその資金を投資すらしない)」とか「母が病気で入院したの。月末までに返すから100万円貸して(母は入院などしていない)」とか。
これらの嘘は本人が「それが嘘だ」と認識している分、面と向かって観察していると、目が泳ぐ、不必要に声が大きくなる、不自然なところで腕を組むとか、その場にふさわしくない振る舞いが目につくので、話をしている側も違和感を感じて、嘘であることがなんとなく分かる。
これは不思議なもので、電話で会話をしているだけでも、声の調子や高低で嘘が見抜けることがある。
声・間・喋るスピード・・・私たちの脳みその中のセンサーはこれらの違和感を無視できない。


2つ目はただ、本当のことを言わないという方向でつく嘘である。
「本当に私と結婚するつもりがあるの?」と聞かれて「君がそんな瑣末なことにこだわる人だとは思わなかったなあ」と答えたり、「本当に儲かるんでしょうね?」と聞かれて「私を信じて下さい」と答えたりすることがそうだ。
これも、会話を進めるうちに、人から核心をつく質問をされた時に「質問には質問を」で逃げたり、答えをはぐらかしたり、執拗に回答を求める人に逆ギレしたり・・・何か大事なもののまわりでぐるぐる空転しているような感覚がまとわりついてくるので、なんとなく分かる。


いま挙げた2つの嘘は、なんとなく分かる。
慣れと注意深ささえあれば。


ところが、3つ目の嘘は、非常に分かりにくく、ある意味、最もたちの悪い嘘である。
「あなたのお金を倍にしてあげるよ」とか「月末までに返すから、100万円貸して」と言ったとする。
この場合、言っている本人は、言っている時は「本当に」できるつもりだし、「本当に」返すつもりだ。
だけど、努力をしても相場を上下させることなんて不正をしない限り不可能だし、返すつもりがあってもそれだけの確実な収入がなければいつまでに返す、とは言いきれないはずである。
それは客観的に見れば、実現不可能、または非常に実現困難な事柄であるのだ。
しかし本人は楽天的に、もしくは考えなしに「出来る」と思い込んでいる。
言っている気持には「嘘」はない。だから言っている時点では、仕種や声など外見に不自然な様子がない。むしろ誠意を感じたりする。
だから彼らから被害を受けた人は、後日「嘘をついているとは思わなかった」「まさか嘘だなんて思わなかった」と口を揃えて言うのだ。
まさにそのとおり。
彼らは、ただ言ったことを守れない、守らない人間であるだけなのだ。


このタイプの嘘をつく人間として、マルチ商法の主宰者などが挙げられる。
彼らもやはり、たとえ逮捕されても一向に反省めいた言葉を吐くことはない。


このようなケースで、もめごとを解決しようと思っても、成功しない場合が多い。
なぜなら「嘘をつかれた」という被害者に対して、加害者は「嘘なんかついていない。本当にそうするつもりだったのだ」と主張するので議論が平行線になってしまうのだ。
「せめて嘘をついたことを謝ってもらえれば」という被害者の願いに、嘘をついたつもりのない加害者側は誠意ある態度で応じることが少ない。
そのため、彼らの反省の色の見えない傲慢な態度に、被害者は再び傷ついてしまうことになる。

このようなケースでは、運良く、加害者側が自分の愚かさに気づいて謝罪や反省の気持ちを抱く場合もあるが、それは稀である。

大半のケースでは、時間がかかるが、被害者が気付くのを待つ。
自分が変わるより他にはこの不幸を乗り越える方法はないということを。
これからも生きていくために、理不尽さを飲み込み、消化するための装置を自分の心の中に作る必要があることを。
その装置を作ることのできない被害者は嘘をついた人への恨みと、騙された自分への後悔に囚われながら、その後を過ごすことになるのだ。


「どうやったら彼(加害者)に反省してもらうことが出来るんでしょう?」
そう聞かれて言葉に詰まる。
人は人を無理やりに反省させることは出来ないと思うから。
ある時、苦し紛れに
「きっと彼は『来世』で、人に騙される側になるのかも知れませんよ」
と口にした。
浅はかな私の思いつきの言葉に、てっきり「そんな気休めを!」と怒られるかと思ったら、初めて彼女から微笑みがこぼれた。
「そうですね・・・。この世ではだめでも、次に生まれ変わったら、私と同じ気持ちを味わうことになるかも知れませんね」
人は苦しさを消化するためにいろんな装置を利用するのだ。