理解しあうこと

もめごとの相談を受けていて、最後に「どのようなことを相手に希望していますか?」と尋ねると「謝って欲しい」「反省して欲しい」という言葉が返ってくることが多い。
金銭的な要求が出来る場合でも「お金はいいから、謝罪して欲しい」と言われる当事者もいる。
なんだ、謝っちゃえばいいんだ・・・とも思うかも知れないが、これは言葉通りの意味ではない。
なぜなら「ごめんなさい」と言われても、「反省の気持ちが見えない」「誠意がない謝罪で、かえって心が傷ついた」となる場合も多々あるからだ。
謝罪は、相手の苦しみや怒りが理解できていないと逆効果になる。
つまり当事者が希望しているのは、ただ謝ってもらうことではなく、「苦しんでいる自分を理解してもらうこと」なのだ。


大きな声が響いた。「だって私はずっとお兄ちゃんのお下がりの黒いランドセルを背負わされたのよ!」
それはおとなしい印象の彼女が発したとは思えないほど切実な悲鳴のような声だった。
亡くなった男性の娘と妻・息子が相続問題を話し合っている最中、その場の空気は凍りついた。・・・ランドセル・・・?
その瞬間、私の心に浮かんだのは、赤いランドセルの友人たちの中でうつむきながら黒いランドセルを背負って学校に向かう小さな女の子の姿だった。
その想像の中の光景はとても切ないものだ。
しかし一向にその母親と兄にはその切なさが通じていない。
2人ともきょとんとした顔で、兄は「なんだよ、それ。意味分からないこというなよ」、母親に至っては「だって、まだ使えたんだから当たり前でしょ」と答えていた。
しまいには彼女は泣き出した。分かってもらえない・・・。


当事者がもめごとの解決の過程を通じて理解し合うことは、合意を取り付けることより大切なことである。
取り返しのつかないことであっても、当事者同士が理解し合えた、共感できたと感じることで、お互いのことを許すことが容易になる。
だから本筋とは関係のないことであっても、当事者同士が顔を合わせた時は、なるだけ互いに話をしてもらうようにしている。
顔を合わせられない場合は間に入った私たちがその人の心情や立場を伝えようと努力をする。
もちろん最初から「分かりたくない」人もいる。何を言ってもどう言っても聞く耳を持たない場合、共感を得られる見込みは少ない。
しかし理解しようとしていないわけではないのに、語り合っても語り合ってもどうしても分かりえないことがある。
お互い異なる性格を持ち、異なる立場にいて、異なる環境で暮らしている訳だから、100%理解できないことは分かっているのだけれど。
それが夫婦であったり家族であったり、兄弟であったりするとなおつらい。
「分かってくれるはず」という期待値が高い分、分かってもらえないという失望が他人の場合よりも深くなってしまうのだ。
理解し合えなくても、時間がくれば、もめごとには決着をつけなければならない。
もめごとは必ずしも、100%の理解と和解で終わるわけではない。話せば話すほど、無理解の溝と孤独感が深まることもまたあるのだ。


子供の頃、小学生ぐらいだったか、原因は忘れてしまったけれど、(子供なりに)深い深い絶望感に襲われて暗澹たる気持ちになって車に乗っていた。
それまでは毎日、アメーバーのように伸び縮みはしつつも、家族や友人たちと「自分」との境界はあいまいだった。周囲との一体感や生きることへの安心感の中で暮らしていた。
ところが、何かの拍子にそれらのすべてと分断され、自分が暗い何か大きなもので囲まれていると突然気づいて、生きることに怖気づいてしまった。
心細い気持ちで膝をかかえて後部座席の窓から外を眺めていた私は、あることに気づいてびっくりした。
お月さまがついてくる・・・。
お月さまは私がどれだけ車で移動しても、ずっと私の頭上で輝いていた。いつも。
「分かっているよ」と言っているみたいに。

そして私は分かってもらえない・・・と嘆く人に、せめてあのお月さまのように、つかず離れず、「分かっているよ」と伝え続けたいと思っている。