もめごとに勝つこと、負けること

先日関わったもめごとで、事実関係の調査の結果、最終的に一方の当事者の言い分が正しいと全面的に認められたケースがあった。
当然ながら、言い分が認められたAさんは100%の金銭的な要求をしてもおかしくない場面だったが、不思議なことにAさんは約10%ほどの額を相手に譲った。
「100%あなたの言い分が認められるケースなんですよ、本当にいいのですか?」
と尋ねる私にAさんは答えた。
「ええ、私が100%勝ったということは分かったから、もういいの。でも100%要求できる時に100%要求しないって、かっこいいでしょ?」
もう一方の当事者Bさんは本来なら自分の言い分がすべて否定され、面目は丸つぶれのはずだったが、このAさんの申し出にニッコリ笑って進んで握手を求め、去って行った。
Aさん、Bさん、本当にかっこよかったです。

私はもめごとで100%勝利した時には100%の成果を要求する当事者を否定するつもりはない。むしろそのやり方は当然であり、なんら非難されるべき行為ではない。ただし、そのような場合、今回のAさんのケースのように相手方と握手をして別れるとはいかないかも知れない。つまり負けた方にプライドを傷つけられたための強烈な憤り、復讐心が残る場合があることが少なくない。それは回りまわっていつか勝者を傷つける日が来るかも知れない。

先日、マスコミで話題の横綱が千秋楽の優勝決定戦でもう1人の横綱を寄り切り勝利を決めた後、大きく両手をあげてガッツポーズをした。あれこそはまさしく100%自分の勝利を見せつけた、という場面だった。
このガッツポーズが横綱審議委員会で「品格に欠ける」と批判を受けた。
「じゃあ横綱の品格とは具体的に言うと、なに?」という疑問はあるが、そういう定義とは無関係に、あのガッツポーズを見て、あれはまずいだろう、という違和感を覚えた人はいたのではないか。
古来より神事とされている相撲の、神聖とされる土俵の上、神の寄り代とされる横綱同士の対決、注目の一番、という場面で、サッカーやプロレスなどの別のスポーツでは自然であろう彼の勝利のガッツポーズがどこかそぐわないと私は感じた。

人と人が争う、ということに対して、古くから人間は様々な様式を定めたり(日本で言う果たし合いや欧州の騎士の決闘とか)、勝負に神を介在させたり(相撲や決闘裁判とか)、形式化したり(じゃんけんとか)することによって、勝負には潔さや美しいふるまいを必要としてきた。それは人間関係に遺恨を残さないための一種の知恵であり、そしてそれは戦う人自身の人間性を高めるための知恵でもあったのではないだろうか。

その数日後、負けた横綱にリポーターが「あの日はどうでしたか?眠れましたか?」と尋ねたら、彼は短く「悔しくてその夜は眠れなかった」といつもの笑顔を見せずに答えていた。
勝った方が美しくふるまえば、負けた方もまた美しくふるまおうとするのではないか。
彼らには、また戦う日がくる。再び戦った時、2人がどうふるまうのか、私は見てみたい。


もめごとに勝った時、負けた時、人はどうふるまうべきなのか。
それは個々の人間の生き方とか美意識の問題なのだと言ってしまうのは大げさだろうか。