「わたし、定時で帰ります」 朱野 帰子 著

どんなに仕事が山積みでも就業時間内で自分の仕事は計画通りに片付けて定時に帰るということにとことんこだわる結衣。
それは今は上司となった元婚約者の晃太郎、企業戦士だった父に対する意地でもあった。
新しい婚約者との結婚も決まり、順風満帆に思えた彼女に降って湧いた昇格と長時間残業必至な問題案件。
このままではチームが病気や退職で崩壊してしまう!自らも満身創痍で彼女が立てた作戦とは…。

無茶ぶり案件を悪名高きインパール作戦に見立て、どうしたら同僚や後輩を無理させずに働いてもらえるか、と考える結衣。
そして「為せば成る」の精神論で作戦完遂をうたう晃太郎たち企業戦士の面々。
しかし絶対に残業をしないことが前提で仕事を組み立てる結衣も、仕事量に自分を合わせる晃太郎も、どちらも「決めつけ」をすることで却って自分を追い詰めているような気がする。
インパール作戦という人の尊厳を蹂躙するような失敗を二度としない方法は、そのような無謀な作戦を提案、実行させる無能な人物たちを中枢に据える会社や社会の構造を変えることだと思う。
つまりインパール作戦がそもそも選択肢に挙がらない社会を作ること。
もちろんそれが難しいからこそ今もパワハラなどで斃れる人が絶えないのだけれど。
それは東京オリンピックという一大事業をめぐり、さまざまな有り得ない案件がまかり通っている様子を見ていると良く分かる。
おそろしい現代のインパール作戦…。
会社について、社会について考えさせつつ、ほどよく恋愛の要素も取り入れたバランスのよい小説。
一気読みしました。

わたし、定時で帰ります。

わたし、定時で帰ります。

「駒子さんは出世なんてしたくなかった」 碧野 圭 著

地道に真面目に仕事と家庭を大切にしながら働くたくさんの人に読んで欲しい。

出版社の管理部門の課長として働く駒子さん、42歳。
仕事には裏方としてのやりがいを、そして家庭では稼ぎ頭として主夫である夫と高校生の息子を養うプライドをもって、充実した心穏やかな暮らしを送っている。
そんな中、降って湧いた昇進のチャンスと夫の仕事復帰の話。
ポストを競う自分とは対称的な女性社員のプレッシャーや、セクハラ被害を受けた女性部下の受け入れ、扱いづらいベテラン男性社員との行き違い…数々のトラブルが職場に湧き出す一方、順風満帆に思えた家庭にも波風が立ち始め…。

多様性という概念が社会にじわじわ浸透し始め、現在は一昔前のように社員みんなが昇進を目指しているとは言えない時代になっている。
面倒な人間関係のあれこれを避けるため出世は捨てるという人もいるだろうし、趣味や家族を優先するために出世は二の次にするという人もいるだろう。
ただそれでも、駒子さんに限らず、会社組織に属してある程度の期間が経過すると、誰でも自然と「次の段階」に向き合わねばならない時はやって来る。
異動で新しいメンバーと組んだり、今までとは違う新しい仕事を任されたり、新しい資格に挑戦せざるを得なくなったり。
ストレス溢れる状況だけど、もしかしたらそんな出来事は、人生の曲がり角に来たという合図なのかもしれない。

私も駒子さんと同様の状況に追い込まれたことがある。
曲がり角を曲がるのが本当に怖かった。
けれど本書を読んで、改めてその経験を思い起こしてみると、その経験は私に「新しい視点」を与えてくれたように思う。
指示されて働かされていた立場から、仕事全体の流れや社会がその仕事に求める役割、組織の向かうべき方向…それらを見る新しい視点を持てた、いや持たざるを得なかった。

視点を複数持つと、世界が平面から立体的になり、見ている景色がガラリと変わる。
それによって、周りの人々を見る目も変化した。
好きと嫌いだけでない人間の組み合わせの妙とか複雑さ、面白さを学んだ。
仕事にはいろんな人がいていいんだ、いやいろんな人がいた方がいいんだと思えた。
今は強制的にリセットされ、体の中身をまるごと入れ替えざるを得なくなるような、そんな体験が少し懐かしい。

人生には何も仕事ばかりではなく、進学や進級した時、引っ越しをした時、結婚をした時、子供が生まれた時、人とお別れした時などなど…たくさんの曲がり角がある。
新しい場所には困難や苦労も待っているから、角を曲がる前は大抵緊張したり尻込みしてしまう。
だけど思い切って曲がった人は、その場所がいつしか「自分の場所」になり、自分の身体の細胞が全部新しくなっていくような…あの感覚を必ず味わえる。
そしてそれが次の曲がり角を曲がる時の大きな自信になる。

本書はまさに駒子さんが曲がり角でさまざまな葛藤に直面しながらそれをどう乗り越えていくかという物語。
仕事上の曲がり角と家族の曲がり角が同時期に重なり、その大変さが身につまされる。
けれどピンチの時には、それまでに自分がどう生きてきたか、周囲の人々とどんなふうに信頼関係を築いてきたかということが、ここぞという時の命綱になる。
一番の自分の味方は、一生懸命に生きてきた過去の自分なんだ。
お仕事小説は数あれど、地味な(失礼)主人公、地味なお仕事にここまでいろいろ感情移入したのは初めて。
地道に真面目に仕事と家庭を大切にしながら働くたくさんの人に読んで欲しいと思う。


駒子さんは出世なんてしたくなかった

駒子さんは出世なんてしたくなかった

「ささやかで大きな嘘」上・下 リアーン・モリアーティ 著

大人の女性が、主体的に生きるということ、そして誰かと繋がりながら生きるということの難しさと大切さ。

ある公立幼稚園で父兄によって毎年開かれるトリビアクイズ保護者懇親会。
そこで起こった殺人事件。
各章で提示される父兄の証言はバラバラで、彼らは殺人事件そのものよりも思い思いに自分たちの興味のあることにしか注意は向いていない。
しかしその何気ない証言がこの懇親会の日に起こった事件に繋がっていることがだんだん明らかになっていく。
けれど最後の最後まで分からない、果たして誰が加害者で誰が被害者なのか。
物語は事件の6ヶ月前から始まる…。

騒々しいママたちのやりとりや我が子優先の自分本位な本音、そしてセレブママと懐が寂しいママとの経済格差や、離婚によって複雑になった家族関係…。
本書に描かれるのは嫌になるほど現代的な親子たち、主に母親である女性たちの姿だ。
著者は軽いコメディタッチでこれらを詰め込み、随所に笑いを交えてすいすい読ませてしまうけど、もちろん本書はミステリであり、殺人事件に至る深刻なトラブルと秘密が幼稚園内に存在していることを丁寧に描いていく。
例えば家族間で起こるひどい暴力や、大人と子どもの両方に起こる残酷ないじめ、モンスターペアレントの横暴や教師たちの疲弊…。
けれどニコール・キッドマンに自ら主演、ドラマ化すると決意させた本書の最大の魅力は、これが女性の友情と自立を描く物語であるという点だ。
齢を重ねて感じる、大人の女性が主体的に生きるということ、そして誰かと繋がりながら生きるということの難しさと大切さ。
最後まで読むとしみじみとそれが分かる。
本当に、読んでよかった。


ささやかで大きな嘘〈上〉 (創元推理文庫)

ささやかで大きな嘘〈上〉 (創元推理文庫)

ささやかで大きな嘘〈下〉 (創元推理文庫)

ささやかで大きな嘘〈下〉 (創元推理文庫)

「わたしの忘れ物」 乾 ルカ 著

「死んだ女より 悲しいのは 忘れられた女

大学で半ば無理やりに紹介された大型商業施設の忘れものセンターの期間限定バイト。
渋々働き始めた恵麻は、次々に持ち込まれる不思議な忘れ物と持ち主たちの「モノがたり」に触れ、次第に自分自身の大事な「忘れ物」に気づいていくのだか…。

「死んだ女より 悲しいのは 忘れられた女」

本書を読んで頭に浮かんだのはマリー・ローランサンの言葉だった。
何かを「忘れる」ということは、忘れられたモノにとっては自らの存在の意味を、支えを失ってしまうということなのかも知れない。
それは、とてもとても残酷なことだと思う。
廃校や廃墟、空き店舗や住民がいなくなった部屋などを見た時に感じる寒々しい気持ち、心細さ。

どのエピソードもドラマチックで意外性があり面白く読めたのだけれど、いかんせん「存在感がない」「ミス・セロファン」と繰り返し自嘲している主人公にどうしても好感が持てず、残念だった。
設定上、仕方ないのだけれど、最後まで都合良すぎな周囲の人々にも突っ込みを入れたくなる。
忘れられる悲しいモノたちの物語だからこそ、気持ちが明るくなる人が中心にいて欲しかったのだと思う。

わたしの忘れ物

わたしの忘れ物

「スタートボタンを押してください」 D・H・ウィルソン & J・J・アダムズ編

さあ、始まる「スタートボタンを押してください」。

ゲームにまつわる12の作品が収められたSF短編集。
ケン・リュウ(「紙の動物園」など)や桜坂洋(「All YouNeed Is Kill」など)、アンディ・ウィアー(「火星の人」など)といった有名どころの作品は当然ながら、本邦ではあまり知られていない作家の作品もどれも個性的で魅力的だ。
これはお得感ある。
私にとってSFはどれも、現実にはあり得ないという前提からか、どこかせつなさを感じる物語で「お気に入り」の物差しもせつなさの質と量が基準になる。
その基準に従って、上記の3人の作品以外でいくつか本書から挙げてみると、
「1アップ」
「猫の王権」
「キャラクター選択」(一時期私もこういうマイルールでゲームをプレイしてました!)
かしら。
ゲームにまつわるとは言ってもビデオゲームばかりでなく、どの作品で取り上げられるゲームも千差万別、荒唐無稽な設定で難解なルールもあったり、そのもどかしさがまた面白い。

おそらく多くの人々が「ゲーム」好きであることは、沢山のゲームアプリなどが日替わりに登場する様子を見ればよく分かる。
それは私たちの生きているこの世界もまた不公平で不平等なルールに支配されたサバイバルゲームで、別のゲームをしている間は、今まさに自分がその渦中にいることをしばし忘れさせてくれるからかも知れない。
「アンダのゲーム」(エンダーではない)という作品を読んでいてふとそんなことを思った。
死ぬまで私たちはゲームのプレイヤーなんだな、と。
誰の創った、どんなルールのゲームなのかは分からないが、1人のキャラクターとして経験値を稼ぎ、武器を揃え、1人、あるいは仲間とダンジョンを攻略し、敵を倒し、ゴールを目指す。
ただこれが通常のゲームと違うのは、決して「最初からやり直しますか?」という救済のメッセージが流れることはないこと。
私たちがプレイしているこのゲームこそ、最もせつないものなのかも知れない。


スタートボタンを押してください (ゲームSF傑作選) (創元SF文庫)

スタートボタンを押してください (ゲームSF傑作選) (創元SF文庫)

「ヌヌ 完璧なベビーシッター」 レイラ・スリマニ 著

ベビーシッターが子ども2人を殺して自殺を図った。なぜ?事件に至る過程を丹念に追いながら、人と人の間に横たわる無理解の深い溝と絶望を描く。

5月のある日、パリのアパルトマンの一室でベビーシッターが2人の幼児を殺害し自殺を図った。
「完璧なベビーシッター(ヌヌ)」
雇い主からそう呼ばれたルイーズという女性がなぜそのような凶行に及んだのか。
そして物語は陰惨な事件の起こった冒頭から、夫ポールとともに妻ミリアムが弁護士の仕事を再開するためにベビーシッターを面接するシーンへと転じる。
面接のその日から子どもたちに好かれ、ベビーシッターの仕事ばかりではなく、美味しい料理、自宅の整理整頓まで完璧にこなす女性ルイーズ。
子どもたちは彼女を「わたしのヌヌ」と呼び、慕う。
そしてポールとミリアムもやがてルイーズなしには自分たちの生活が成り立たなくなっていることに気づく。
では、ルイーズは?彼女は何を考え、何を悩み、何を望んでいたのか…


「うちのヌヌは妖精のように素晴らしい女性なの」
ヌヌ、そもそも大人であるルイーズに対して、親である自分が小さな子どもの使う愛称を使うこと自体が、ミリアムがルイーズという個性を持つ大人の女性の内面を無視していたことの表れかもしれないとも思う。
けれどそれは決してミリアムだけの話ではない。
だって私も店員、上司、同僚、教師、ママ友、そんな役割の仮面をかぶった人の内面がちらりと覗き見えた時、不必要にドギマギすることがあるから。
それは多分、彼ら彼女らに私生活があることを、つい忘れてしまっていること、いや本当はそれを考える面倒さに気づかないふりをしている自分に気づくからでもある。


悪魔は突然現れるわけではなく、たいていはその人の内面で眠っていて、恐らくはあたたかい人間関係だけがそれを抑える力になる。
それが得られない境遇にいる、またはそれを断ち切られた時、悪魔はその人の中で育ち外界に牙を剥くのだ。
私たちには「事件」が起こって初めてその残酷さが目に見える。
初めて…本当に?いや、本当は分かっている。
ミリアムも気づいていた。
ルイーズの寂しさ、寄る辺のない心細さに、そしてその不安定さに。
複数の人間の身勝手や自己保身、心の弱さ、様々な要素が重なって、惨劇が起こる。
おそらくは私たちが目にする多くの「事件」もまたそうなのだろうと思う。

ヌヌ 完璧なベビーシッター (集英社文庫)

ヌヌ 完璧なベビーシッター (集英社文庫)

「コールド・コールド・グラウンド」 エイドリアン・マッキンティ 著

国境も肌の色も言語も超えて、人はそれぞれ神様に「かくあれかし」と祈る。

通勤経路に小さな神社があり、ほぼ毎朝立ち寄っては手を合わせている。
人がふたり通れるくらいの鳥居と六畳ほどの大きさの拝殿。
最初は家族のこと、仕事のことを祈っていたのに、だんだん親類のこと、同僚のこと、友人のこと…と気になることが次々浮かんでキリがなくなってきた。
しかしそれでも頭に浮かんだのはせいぜい自分の所属する場所や身近な人やものばかり。
ある時ふと、私の乏しい想像力は結局、自分と自分の周り以外を切り捨てているのかもしれないと思った。

チャールズとダイアナの華やかなロイヤルウエディングが挙げられた1981年、イギリス連合王国の一部である北アイルランドの首都ベルファスト
祝福ムードに包まれた本土とは裏腹に、ここはイギリスとアイルランドプロテスタントカソリックナショナリストユニオニスト、それぞれが互いに自分の是を声高に主張し、傷つけ合う場所だった。
そんな場所で起こったのは、楽譜が被害者の体内にねじ込まれ、その手は切り取られて別人のものに交換されるという猟奇的な殺人事件。
担当したのは王立アルスター警察隊巡査部長のダフィ、カソリック教徒で大学では心理学を学んだという警察隊の中の異分子だ。
彼の宗教的、政治的な微妙な立場は、ただでさえややこしい紛争中の街でさらに捜査を困難なものにしてしまう。

ロイヤルウエディングはうっすら覚えているのに、あまり記憶に残っていない北アイルランド紛争
IRAやUDR、UFFと言った団体名称が頻出するので巻末を何度か確認しながら読み始めたが、それは慣れてくると次第に苦にならなくなる。
それよりも各陣営の主張や立場を理解するに従い、犯人探しだけでなく「こいつが悪い」と名指しできないこの紛争の複雑さ、政治や宗教の矛盾について考え込むばかり。
誰かはっきり「悪者」を決めることができればスッキリするのに。

人口が増え、経済圏が拡大し、インターネットは国境を軽々と超え、私たち人間の作った社会は複雑になる一方だ。
今も北アイルランドだけではなく、世界中で異なる宗教や民族、政治制度によって人々は分断され、争いは続けられている。
ものごとは光が当たった面だけ見ても全体像は把握できないし、正義だってどの立場から定義するかで意味が変わってしまう。
そんな複雑さは私たちを混乱させ、単純化された分かりやすい主義主張に飛びつかせようとするけれど、それを安易に選べば自分以外の他者をばっさり切り捨てることにもなりかねない。

あえて自分が複雑な立場に立つと分かった上で、「この狂気を終わらせるために少しでも役に立ちたい」という理想を胸に刑事という職業を選んだダフィ。
けれどと言うか、やはりと言うか、真実にたどり着くまでに彼は、さまざまな力にねじ伏せられ、操られ、ぼろぼろにされてしまう。
そして事件が終わっても、世界も北アイルランドベルファストの街もそれほど変わらず、なんだか少しも報われた気がしない。
ダフィは刑事を志した初心を見失うんじゃないか…と心配になったが、本シリーズは現在6冊刊行済みということで、無事この街で刑事を続けるようだ。
次作も近日中に刊行予定とのことなのでとりあえず一安心。

国境も肌の色も言語も超えて、人はそれぞれ神様に「かくあれかし」と祈る。
時にはささやかに、時には壮大に。
幼い頃、願い事が叶わないのは神様が実在しないのか、私の祈る力が足らないのだと思っていた。
今は、たくさんの人の願いが互いに交差し絡み合っているから、神様がそれを解きほぐすにはたくさんの時間がかかるに違いないと考え、待つしかないと思うようになった。
同じように「かくあれかし」と願う自分以外の違う土地、違う宗教、違う価値観の中で生きている誰かを想像しながら。
この世で起こることは複雑で、神ならぬ身の私はそれに耐え、受け入れる覚悟をするしかないのだから。

コールド・コールド・グラウンド (ハヤカワ・ミステリ文庫)

コールド・コールド・グラウンド (ハヤカワ・ミステリ文庫)